切手で綴る世界遺産(タイ)
古都アユタヤ
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アユタヤ遺跡 | |
ワット・ラーチャブーラナ寺院遺跡 Wat Rachaburana |
ワット・マハータート寺院遺跡 Wat Maha That |
ワットマヘーヨン寺院遺跡 Wat Macheyong |
ワット・プラ・シー・サンペット寺院遺跡 Wat Phra Si Sanphet |
遺産保全デー(1994、プラナコーン・シ・アユタヤ歴史公園)記念 (PHRA NAKOHN SI'AYUTTHAYA HISTRICAL PARK) タイ 1994/4/2 発行 |
・古都アユタヤ Old city of Ayutthaya, Thailand, 15 タイ王国アユタヤ歴史公園 (Historic City of Ayutthaya, Thailand) 所在地:タイ王国アユタヤ県プラナコーンシーアユッタヤー郡(アユタヤ市)に有 世界遺産:ユネスコの文化遺産(1991) (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural) 正式名称:日:古都アユタヤ 英:Historic City of Ayutthaya 仏:Ville historique d'Ayutthaya 古都アユタヤはバンコクの北約80kmにある、タイ王国のアユタヤ県アユタヤ市にあるアユタヤ歴史公園内にある寺院遺跡で、1351年にウートン王が建都してから、1767年にビルマ軍の攻撃で破壊されるまでの417年間、アユタヤ王朝の都としてタイの中心都市でした。アユタヤは、チャオプラヤー川(Chao Phraya River, 372km)と2つの支流パーサック川(Pa Sak River, 513km)、ロップリー川(Lopburi River, 95km)が合流する地勢に四方を囲まれた南北約4km、東西約6kmの地形は水運に恵まれ、17世紀はじめにはヨーロッパと東アジアを結ぶ国際貿易都市として繁栄し、、日本人町(ご朱印船貿易)もありました。この都には、かつての王宮を中心に、歴代3人の王が眠るワット・プラシー・サンペット、木の根に絡まった仏頭で有名なワット・マハタートなど、いたるところに遺跡が残っています。 アユタヤ歴史公園はバンコクから車で約2時間(鉄道&川船も有)、アユタヤ王朝の遺跡群で、ユネスコの世界遺産に「古都アユタヤ」として1991年に登録されました。日中は象に乗って遺跡を見学できるほか夜には遺跡が美しくライトアップされています。 主な寺院跡:〜
ワット・ラーチャブーラナ寺院は、1424年に没したアユタヤ王朝の第7代ナカリンタラーティラート王の王位継承による決闘で、3人の王子が争い、上の二人が相討ち死亡後、第8代サームプラヤーが王位に就き、兄弟の火葬場所に先王の寺院として創設しました。4基のスリランカ式の仏塔(ストゥーパ(仏舎利)Stupa)がその中央塔堂を囲んで、急勾配の階段で行く塔堂の地下聖堂には、退色したフレスコ画が有。これらは早期アユタヤ時代からのものなど貴重な物が、現在、チャオ・サーム・プラヤー博物館に収蔵され、地下聖堂にはクメール(Khmer Empire, 802-1431)とスコータイ双方の影響を示している仏像があります。
・第2代ラーメスアン王の、1369-70年建立説 1630年代アユタヤ・オランダ商館長エレミアス・ファン・フリートの記録 ・第3代パグワ王(Khun Luang Pa 説Ngua)の、1370〜88年建立説 アユタヤ王朝年代記(Royal Chronicles of Ayutthaya) 上の異なる二通りの説が有って、マハタート(Maha That)とはお釈迦様の遺骨や遺灰を意味しており、昔はタイの各都市にワット・マハタートという呼び名の寺院があったと言われ、現在でもスコータイには別のワット・マハタートが現存しています。建立当時は境内中央に高さ50m、上部が黄金に輝く仏塔と、その東西に礼拝堂と仏堂があったと推測されていますが、1767年にビルマ(現ミャンマー)の軍隊による攻撃で壊滅的な打撃を受け、跡形も無くなり、現在では崩れ落ちたレンガの壁や礼拝堂の土台が残るのみの廃墟となっています。また仏塔があったと思われる場所を中心に、それを取り囲むように多くの仏像が置かれていますが、当時、仏像の頭部には金箔が貼られていたらしく、ビルマ軍が頭部のみを持ち去ってしまったため、全ての仏像は頭の無い無残な状態で放置されています。1956年、タイ政府の文部省芸術局は仏塔跡地の掘削調査を開始し、17mの地下から数々の黄金仏や宝飾品などを発見。それらは現在チャオ・サン・プラヤー国立博物館に展示されています。またアユタヤのワット・マハタートを有名にしたのは石仏の頭部が根の部分に取り込まれた1本の菩提樹です。ビルマ軍が切り取り放置した仏像の頭部が、長い年月の間に木の根に取り込まれ、木を切らない限り取り出すことができなくなってしまったもので、戦争の悲惨さを如実に物語っています。この仏頭の前で写真を撮る場合、仏頭よりも頭が低くなるように座って写真を撮らなければなりません。ワット・マハタートは殆ど全てのアユタヤツアーに組み込まれて、拝観料は外国人:50バーツで、タイ人:10バーツです。 寺院の建築は、中央にロッブリー様式の大きな仏塔があり、その回りを小さな仏塔が囲み、その回りを回廊が囲んでおり、礼拝堂と仏堂が東西にあったと推測されています。地下室は、1956年に文部省芸術局がワット・マハータートの地下室の掘削を開始。地下室には多くの文物が納められていましたが、当時の地元民によると、幾らかは芸術局の発掘前にすでに墓泥棒が、ある程度の文物を持ち去っていたといわれ、墓泥棒の形跡は、10m位い掘った所で岩盤が固くなって止まっており、芸術局の調査の結果、地下室は地下17mまであり、一番下には仏舎利を入れたケースが見つかりました。
この寺院の主要な建物は、 ・仏塔(ストーパ)のチェディ(Wat Chedi)と チェディの基壇は80種類の彫刻された象によって支えられています。 ・聖公会堂(Ordination Hall)のウボソット(Ubosot: 聖職祈祷室) ウボソットは現在も礼拝に使用中です。 創建は、「アユタヤ王朝年代記によると、第8代サームプラヤー王(チャオ・サーム・プラヤー、Chao Sam Phraya)の治世頃(1438)か、アユタヤ王朝の成立後の80〜100年の頃に建てられました。1569年にビルマがアユタヤに侵攻した時、この寺がビルマ軍の主力の基地として使われました。また、アユタヤの敗北時には、この寺でアユタヤの第19代マヒンタラーティラート王がビルマのバインナウン王(Bayinnaung、1516-在位1550-1581)に、ここで拝謁して降伏し捕虜になりました。1717年には三年間にわたる修復工事が終了するも、1767年にビルマとの戦争に敗れるとこの寺は見捨てられてしまいました。現在では、この遺跡は瞑想の地となっています。
・東 塔〜第9代ボーロマトゥライローカナート王の遺骨安置(1429) ・中央塔〜12代ボーロマラーチャーティラート3世の遺骨安置 建立者:〜2塔とも第11代ラーマーティボディ2世 ・西 塔〜第11代ラーマーティボーディー2世の遺骨を安置 建立者:〜12代ボーロマラーチャーティラート3世 ワット・プラ・シー・サンペット寺院跡はアユタヤ王朝の廃墟となった王宮守護寺院で、この地にはアユタヤ王朝創設者の初代ウートン王が建てた宮殿があったとされています。「アユタヤ王朝年代記」によると、第9代ボーロマトゥライローカナート王の時代に宮殿が移築され、新王宮を川辺(王宮の北側)に建設した時、もとの王宮を王専用の仏教儀式の場の寺院としましました。さらに時代は下り、第11代ラーマーティボーディー2世の時代、現存する仏塔のうち東側の2つが建てられ、それぞれラーマーティボーディー2世の父である第9代ボーロマトライローカナート王と、兄の12代ボーロマラーチャーティラート3世の遺骨がそれぞれ納められました。その後、第11代ラーマーティボーディー2世が崩御すると3つ目の仏塔が建てられ、その遺骨が納められました。 アユタヤ王朝は侵攻してきたビルマとの泰緬戦争(1765-1767)に敗れて、王朝は約400年の歴史に幕を閉じました。陥落の時、この辺りは仏像を含めて破壊されましたが、大きな破壊を受けた他の仏塔遺跡と比べ、ここは漆喰で当時の建築様式が残され、当時の状態をよく保存しているため、アユタヤ時代の建築をそのまま見ることの出来る貴重な遺跡です。 ワット・プラ・シー・サンペット寺院跡を特徴づける3基のチェディー(Chedi:仏塔)は、伽藍中央にチェディーを縦列に3基配列した配置構成となっており、タイでは他にスコータイ県シーサッチャナーライ郡(Si Satchanalai District)にあるワット・コークシンカーラーム(Wat Khok Sing Kharam)で見られるだけの珍しい構成となっています。チェディーとはスリランカ様式の内部空間のない仏塔のことで、釣り鐘形をしています。チェディーは仏舎利を納めるためのもので、スコータイでは仏舎利を納めたチェディーが盛んにつくられていますが、アユタヤでは代々の国王や親族の遺骨が納められ、仏教建築物としてそれ自体が礼拝対象物でありながら、同時に国家の重要人物の墳墓として機能していました。 ワット・プラ・シー・サンペット寺院跡のチェディーには相輪を支えるために平頭上にサオ・ハンと呼ばれる支柱が何本も張り巡らされており、また内部空間がないことを特徴とするチェディーでありながら、釣り鐘形の覆鉢部に内部空間があり、そこに至るまでの急勾配の階段がつけられています。中央の内部は見学可能で、階段から行くことができますが、内部はコウモリの巣となっており、激しい臭気に満ちています。 参考:〜 ・タイ王国の王朝:〜 ・古代〜中世 (BC3-1238) ・スコータイ王朝 (Sukhothai Kingdom、1238-1448)、中部の王朝 ・アユタヤ王朝(Ayutthaya Kingdom、1351-1767) ・トンブリー王朝 (Thonburi Kingdom、1768-1782) ・チャクリー王朝 (Chakri dynasty、1782-現在) アユタヤ王朝(Ayutthaya Kingdom、1351-1767) ・初代ウートン王(1314頃-在位1351-1369) (U-thong、称号:ラーマーティボーディー1世:Ramathibodi I) ・第2代ラーメースワン王(1339-1395) (Somdet Phra Ramesuan、第2代:在位1369-1370) ・第3代パグワ王(Khun Luang Pa Ngua、?-在位1370-1388) (別名:ボーロマラーチャーティラート1世:Somdet Phra Borommaracha I) ・第4代トーンチャン王(在位 1388)7日間で暗殺 (Thong Lan) ・第5代ラーメスアン王(1339-1395) (Somdet Phra Ramesuan、第5代:在位1388-1395、第2代と同じ) ・第6代ラーマラーチャー王(Ramracha、1356-在位1395-1409) (ラーマラーチャーティラート:Ramrachathirat)、ウートーン家で最期の王 ・第7代ナカリンタラーティラート王(1359-在位1409-1424) (Nakarintharathirat、インタラーチャー1世:Intharacha I) ・第8代サームプラヤー王(?-在位1424-1448) (Somdet Phra Borommarachathirat II、称号:ボーロマラーチャーティラート2世) ・第9代トライローカナート王(1431-在位1448-1488) (ボーロマトゥライローカナート:Borommatrailokkanat)ラーマーティボディー2世の父 ・第10代ボーロマラーチャーティラート3世(インタラーチャー2世親王) (Borommaracha III、?-在位1488-1491)ラーマーティボディー2世の兄 ・第11代ラーマーティボディー2世(1472-在位1491-1529) (Chettathirat Ramathibodi II) ・第12代ボーロマラーチャーマハープッターンクーン王(?-在位1529-1533)天然痘没 ボーロマラーチャーティラート3世、ラーマーティボディー2世の子息 (Somdet Phra Borommarachathirat No Phutthangkun、Borommarachathirat IV) ・第13代ラッサダー王(1528-在位1533-1534-?) (Ratsadathirat、ラッサダーティラートクマーン親王)、5才即位、6才退位 ・第14代チャイラーチャー王(?-在位1534-1547年) (Chairachathirat、チャイヤラーチャーティラート:Chairachathirat) ポルトガル人鉄砲傭兵隊120人を雇用 ・略 ・第18代チャクラパット王(1509-1569) (Maha Chakkraphat、在位 1548-1569) ・第19代マヒンタラーティラート王(1539-在位1569)、アユタヤ陥落後、捕虜連行中没 (Mahinthrathirat)前期アユタヤー王朝の終焉 ※1767年、ビルマのコンバウン王朝(Konbaung dynasty、1752-1886)による攻撃を受けてアユタヤ王朝は滅亡。 ※ラーマーティボディー2世治世の1511年にポルトガル人(インド総督アルブケルケ将軍)が、当時タイ領土のマラッカを占領し、ポルトガルの主権をラーマーティボディー2世に認めさせました。これを機にポルトガル人がタイに来るようになりました。 参考HP:〜 ・アユタヤ遺跡の場所地図(世界遺産) ・古代タイ王朝の版図の地図 (黄色:チャンパ、赤:クメール、橙:スコタイ、紫:ラーンナー) こちらで世界遺産の ・クレムリン(モスクワ) ・アウシュヴィッツ収容所 (ユダヤ人絶滅収容所、ポーランド) ・マルタ騎士団 (イタリア) ・アトス山 (ギリシャ) ・ヌビア遺跡 (エジプト) ・ペトラ遺跡 (ヨルダン) ・パルテノン神殿 (ギリシャ) ・法隆寺 (日本) をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2018/1/18 |