Japan 国連 1982 発行 |
白 瀬 中 尉 1912/1/28 南極探検・大和雪原に到達 |
大航海物語★ |
日本郵便 NIPPON | |
白瀬中尉と南極地図 大和雪原の標識 日本の南極探検50年記念 日本 昭和35年 1960/11/29 発行 |
白瀬中尉とオーロラ 20世紀デザイン・シリーズ 日本 平成11年 1999/9/22 発行 |
白瀬中尉は1910年11月に東京を出港して、1912年1月南極の大和雪原(”南緯 80°05′の地点)に到達しました。58,000kmの航海の後、一人の死傷者も無く全員が元気に芝浦に帰港しました。 |
白瀬 轟 シラセ ノブ(1861〜1946) 白瀬南極探検隊記念館発行の切手小型シート・タトウ他より (記念館:秋田県にかほ市黒川字岩潟15-3)。 1861年6月13日、秋田県金浦町の400年以上の歴史のあるお寺(浄蓮寺)の長男として生まれました。少年の頃に、 ・お湯を飲まない ・お茶をのまない ・酒を飲まない ・煙草を吸わない ・寒中でも火にあたらない の五訓をたて極地探検を誓いました。 陸軍に入隊し輜重兵中尉となり、現役中から北極探検を志し、1893(明治26)年、32才で幸田露伴の兄の郡司成忠(1860-1924)の千島探検に参加し、専守(シムシュ)島での越冬で、寒地での生活経験の自信を得ました。 1909年にアメリカの探検家ペアリーの北極点到達を知り、目標を南極に変更しました。種々の障害を乗り越え、大熊重信(1838-1922)の後援会長就任、朝日新聞社や地元の秋田魁新報社を通じて、全国からの義捐金に支えられ、郡司の乗船だった機帆船(204トン)を入手し、東郷平八郎(1848-1934)の命名で「開南丸」と名付けました。 1910(明治48)年11月、隊員27人と共に東京芝浦港を出港しました。一回目は失敗してケープタウンで越冬し、翌年の1912年1月ロス海の鯨湾(その東を開南湾と命名1933年米国地学協会が公認)から上陸するも、悪天候他のため本隊とは別に彼と5人で、突進隊を結成して南極点に向かいました。装備・食料の制約で1912年1月28日、一行は南緯80度05分、西経156度37分の地点で附近一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し、標識を埋めて引き返しました。 そのころ、南極点はノルウェーのアムンゼン隊によって前年の1911年12月17日に、またイギリスのスコット隊によって到達されていました。アムンゼン隊は生還しましたが、スコット隊は全滅してしまいました。 白瀬隊は1912年6月20日、58,000kmの航海のあと、一人の死傷者も無く全員が元気に芝浦に帰港しました。白瀬は当時51才、装備の関係で極点には到達できませんでしたが、その勇気と英知は世界から称賛されました。 探検後は探検に要した借金返済に大変な苦労を重ね、1946(昭和21)年9月4日、愛知県挙母町(現豊田市)で85才の偉大な生涯を閉じました。 参考HP:〜 ・白瀬南極探検隊記念館 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2019/7/28追記 |