大航海物語
亀甲船
1592〜1598
文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)


参考資料
亀甲船が豊臣秀吉の侵略軍を撃破
李舜臣の亀甲船 壬辰倭乱
マーシャル 1998 発行

亀甲船(きっこうせん)
 コブッソン

李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍船の一種。
一般に「亀甲船」が通称となっているが、本来は「亀船」とされる。
史書の記録では、亀甲船は複数の史書にその存在が記されている軍船であるが、現存する船体がないこと、史書の記述があいまいなことから詳細は明らかではなく、研究の途上にある船で、太宗実録に初めて記録された。豊臣秀吉による文禄・慶長の役で実際に運用された。

・亀甲船の構造:〜
「李忠武公全書」(1795年による)
底板の長さ 14.2 m
舷板最下第一板 20.6 m
舳板(船尾)上 4.4 m
頭の広さ 3.6 m
最上級第七板 34.2 m
下の広さ 3.2 m
腰の広さ 4.4 m
高さ 2.3 m
尾の広さ 3.2 m
厚さ 0.12m
これから分かることは、形が細長く流線形で速い速度が得られるようになっており、また安定度が高く、船材が非常に丈夫な特殊船であったということで、厚板と鉄甲が戦闘員と装備を保障し、体当たり攻撃をしても壊れることが無く、優秀な火砲を備えていたので、敵を思う存分攻撃することが出来た。この亀甲船によって李舜臣提督は、緒戦から4ヵ月間に300余隻の船舶を葬り去り、海に補給路を頼る倭軍には決定的な制海権を奪取して大打撃を与えた。

・亀甲船についての解釈:〜
1592/4月の豊臣秀吉による朝鮮侵略(壬辰倭乱)の時の話。豊臣軍の兵力は陸海軍合わせて21万人という大規模なもので、豊臣軍は5月にソウル、6月にはピョンヤンを攻略した。秀吉の夢はまさに実現寸前だったが、その野望を打ち砕き、戦局を転換させる重要な役割を果たしたのが李舜臣提督の率いる水軍が駆使した亀甲船(コブッソン)だったのだ。

李舜臣提督と共に海戦に参加した甥の李芬の「李舜臣行録」では:
「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦船)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には砲口が、竜尾にもまた砲口があった。左右にはそれぞれ6個の砲口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」 「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後からいっせい砲火でやられた」

・現実の亀甲船:
現実には木造船の一種で手漕ぎの突撃艇であると推測され、史書の「李忠武公全書」に装甲船であると指摘できる記述が存在しないことから装甲船とは見なされていない説も有り。

参考地図HP:〜
亀甲船
朝鮮八道

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。      09/6/26

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