★アメリカ |
トーマス・マクドノー提督
|
大航海物語★ |
UNITED STATES POSTAGE コルベット艦サラトガ号 |
||
デ ィケ | タ |大尉 |
マ ックドノ|少尉 |
|
USA 1936-37 発行
|
|
||
US Postage 5大湖 |
||
シカゴ→ |
←ケベっク ←モントリオール シャンプレーン湖 ←オンタリオ湖 ←エリー湖 ←デトロイト |
|
スペリオル、ミシガン、ヒューロン、エリー、オンタリオ アメリカ 1966/6/28 発行 (200%) |
アメリカ(USA)のデラウェア州マクドノー生れのトーマス・マクドノー海軍代将は、第一次バーバリ戦争に従軍した海軍士官の小グループ「プレブル・ボーイズ」の主要メンバーで、1804年にトリポリ港で捕らわれていたフィラデルフィア号の破壊作戦に参加して成功しました。米英戦争のシャンプレーン湖の戦いでは、戦闘艦の砲撃戦の経験はありませんでしたが、ナポレオン戦争での勝利で経験豊富な大英帝国の艦隊がセントローレンス河を遡上して来たのを、アメリカ艦隊司令官として旗艦サラトガ号艦長で、シャンプレーン湖のプラッツバーグ湾で迎撃、勝利しました。1814年にはコンスチチューション号に座乗して米国の地中海艦隊司令官として赴任するも、ジブラルタル港で病状が悪化、帰国の途上に大西洋の船上で亡くなりました。 |
提督トーマス・マクドノー代将 (1783/12/21〜1825/11/10) Admiral (Master Commandant) Thomas Macdonough, Jr 19世紀早期の米国海軍(在任1800-1810 & 1812-1825)の 代将(Master Commandant=1838から Commodore) 生地:デラウェア州ニューカッスル郡マクドノー生 没地:ジブラルタルから米国へ帰国中の商船エドウィン号船上で没 第一次バーバリー戦争(first Barbary War、1801-1805)に従軍 トリポリ港の戦い(1804)でのプレブル士官(Preble's Boys)の一員 米英戦争(War of 1812、1812-1815)に従軍 議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)、1814/10/20受賞 ▼生い立ちの記 トーマス・マクドノーはデラウェア州ニューカッスル郡オデッサ(Odess)近郷の北にあるマクドノー(MacDonough, New Castle County, Delaware, USA)で生れました。父親のトーマス・マクドノーはニューカッスル郡にて著名な医師で、トラップ(Trapp)と呼ばれる農場で暮らしていましたが、1775年に陸軍に入隊し、陸軍少佐(Major)に任命されました。父マクドノー少佐は陸軍
マクドノー候補生は1800/5/15に24門コルベット艦ガンジス号(24-gun corvette USS Ganges, 504t, 220men, 1794)に乗り組みました。ガンジス号は西インド諸島に向けて出帆し、そこで5〜9月の間に3隻のフランス商船を拿捕しました。1800/7/19にキューバ沖でスクーナー船プルーデント号(schooner Prudent)を捕獲。7/20には捕獲されていた米国ブリガンティン船ディスパッチ号(brigantine Dispatch)を奪還。7/21にはスクーナー船フィービー号(schooner Phoebe)を捕獲。7/28にフランス私掠船ラ・フォーチュン・エト・ルイス号(French privateer La Fortune et Louis)を捕獲。プルーデント号とフィービー号は違法な奴隷船(黒人奴隷135人乗船)でしたので、フィラデルフィアのミフリン要塞(Fort Mifflin, Philadelphia)へ連行しました。9月になると乗組員に熱病が発生したので、帰国の途につきました。 翌1801年、アメリカとフランスの間で停戦が成立すると、マクドノー候補生は1801/10/20に38門フリゲート艦コンステレーション号(38-gun frigate USS Constellation 1,265t 1797)艦長アレクサンダー・マーレー(Alexander Murray 1755-1821)に配属されて乗艦し、地中海への航海へ向かい、マーレー艦長から海軍士官としての海軍魂・航法・砲術・航海科学(seamanship, navigation, gunnery, nautical sciences)などの教育を受けました。 ▼第一次バーバリ戦争(1801-1805)に従軍 コンステレーション号に乗り組んだマクドノー候補生は 1802/2月に第一次バーバリ戦争に従軍。1802/5/31にトリポリ港に対する攻撃で、第2次トリポリ港封鎖艦隊(司令官リチャード・モリス代将(Richard Valentine Morris, 1802-1803)による封鎖作戦に参加しました。 1803/5/21にマクドノー候補生は転属して、アメリカ海軍の所属となった38門フリゲート艦フィラデルフィア号(38-gun frigate USS Philadelphia, 1240t, 1799)艦長ウィリアム・ベインブリッジ(William Bainbridge 1774-1833)に乗艦となりました。 ・フィラデルフィア号の航海 1801年 07/01、プレジデント号(frigate USS President, 1,576t)と共にジブラルタル港(Gibraltar)到着 トリポリ港の封鎖に従事 1802年 04月、ジブラルタル港をアメリカへと出帆 07/中旬、アメリカに到着 1803年 05/21、マクドノー候補生が乗艦 07/28、地中海へと出帆 08/24、ジブラルタル港到着 08/26、アメリカのブリッグ艦セリア号(American brig Celia)と共にトリポリ側軍艦ミルボカ号 (Moroccan ship-of-war Mirboka, 24gun, 100men)を捕らえてジブラルタル港に連行 10/03、米海軍は第3次増援艦隊プレブル司令官(旗艦コンスティチューション号)を派遣 10/31、フィラデルフィア号拿捕事件 派遣艦隊の中核的存在のフィラデルフィア号がトリポリ側の小型艦を深追いして座礁 干潮の時間帯と重なって離礁できなくなってトリポリ側の砲艇に拿捕され、ウィリアム・ ベインブリッジ艦長以下乗組員307人がトリポリ側の捕虜になる その時、マクドノー候補生は上陸許可中で艦を離れていた 11/01、マクドノーは12門スループ艦エンタープライズ号 (12-gun sloop USS Enterprise 135t, 1799) 艦長ステファン・ディケーター大尉(Stephen Decatur, Jr. 1779-1820)に転属 1804年 02/06、マクドノー達がトリポリ港の夜襲でフィラデルフィア号の破壊に成功 マクドノーは戦時昇進(21才)して少尉(acting Lieutenant)に任官。 ・フィラデルフィア号の焼打ち作戦:〜(トリポリ港の夜襲) プレブル司令官の命令を受けたディケーター大尉は、イントレピッド号と改名したトリポリ側から拿捕したケッチ漁船に兵員を乗せ、夜間に移乗攻撃をかけてフィラデルフィア号を破壊する作戦を立案。マクドノーは16門スクーナー艦サイアニー号 (18-gun brig the USS Syren, 240t,1803) に乗艦。1804/2/3にサイアニー号とイントレピッド号がシチリア島のシラクサ港(Syracuse)を出帆。1804/2/7にトリポリ港到着するも嵐となり、1804/2/16に作戦を実行。現地の漁船に偽装し、募集した志願者76人を乗せたディケーター大尉のイントレピッド号は、艦内に収容しきれなかった約10人を上甲板に乗せていたものの、トリポリ側に怪しまれることなく要塞の砲台の真下に係留されていたフィラデルフィア号に接近しました。アメリカ海軍の完全な奇襲となったこの戦いは、フィラデルフィア号の左舷にイントレピッド号が強行接舷の後、水兵の斬り込み隊を送り込み、短時間の白兵戦でフィラデルフィア号を制圧し、イントレピッド号から持ち込んだ可燃物に放火して退却、破壊炎上させました。 1804/2/19にサイアニー号はシラクサ港に帰港。1804/3/9にノーチラス号(Nautilus)と共にトリポリ港へと出帆。間もなくトリポリ港に到着したサイアニー号はマドンナ・カタポルカナ号(Madona Catapolcana)を捕獲して、マルタ港へ連行。1804/3/末にトリポリのブリッグ艦トランスファー号(brig Transfer)を捕獲。1804/8月と9月にもトリポリ港を攻撃。 1805/6/10にトリポリ政府が平和条約に調印。その後も他のバーバーリー州(Barbary states)との和平に貢献しました。1806/5月にシラクサ港を出帆。1806/8月にワシントン海軍工廠(Washington Navy Yard)に到着。 その後、マクドノー少尉はアイザック・ハル代将がコネチカット州ミドルタウンで砲艇(ガンボート:gunboats)の建設を監督するのを助けました。1806/1月には正式に大尉(commission of Lieutenan)に昇進、18門スループ艦ワスプ号(18-gun Sloop-of-war USS Wasp 450t, 1807)艦長としてイギリス及び地中海周辺で活動しました。1807〜1808年には通商禁止法(Embargo Act 1807)で大西洋の封鎖に従事しました。 1809年に36門5等フリゲート艦エセックス号(36-gun Fifth-rate Frigate USS Essex 850t, 1799)にスミス艦長(Captain Smith)と共に乗組みましたが、転属でミドルタウン(Middletown, Connecticut)に帰郷して砲艇などに乗組みました。そこで妻となる女性アン・シャラー嬢(Ann Shaler)と出会いました。通商禁止法が終わると1810/6月に退役(half pay)。それから1812年までの2年間、マクドノー大尉はインドへ向かうイギリス商船の船長になりました。 ▼米英戦争(1812/6/18〜1815/2/18)に従軍 シャンプレーン湖方面作戦:Lake Champlain Campaign)に従軍 1812/6月に米英戦争の直前、マクドノーは大佐(First Lieutenant)として、38門フリゲート艦コンステレーション号に艦長で現役復帰しました。ワシントンD.C.で装備を調えると前線への配属を志願し、砲艇(Gunboats)の防御するメイン州ポートランド(Portland, Maine)に配属されました。1812/10月にはバーモント州バーリントン(Burlington, Vermont)に配属され、シャンプレーン湖の艦隊を指揮することになりました。1812/12/12にマクドノー大佐(29才)はルーシー・シャラー嬢(Lucy Anne Shaler)とミドルタウンの教会(Christ Church)で結婚しました。 1813/6/2にマクドノー大佐はシドニー・スミス大尉(Lieutenant Sidney Smith)をグロウラー号(11-gun sloop USS Growler, 112t, 1812)で、ルーミス航海長(Sailing Master Loomis)をイーグル号(11-gun sloop USS Eagle, 110t, 1812)で、カナダとの国境でシャンプレーン湖の北から流れ出しているリシュリュー川(Richelieu River 約130km)に派遣して、警備に当たらせました。スミス大尉は命令に反してイギリス側に侵入し、気がつくとイギリス艦隊に圧倒されていました。4時間の戦闘の後、スミス大尉はやむをえず降伏しました。 1813/7/24にマクドノーは代将(Master Commandant)に昇進して正式にシャンプレーン湖艦隊の司令官となりました。 開戦間近の1813/6/3にシャンプレーン湖の米海軍艦艇は英軍から捕獲した砲10門と乗組員50人の砲艇グロウラー号とイーグル号の2隻だけでしたので、シャンプレーン湖が1813年冬期に氷で凍結している間に、マクドノー司令官はバーモント州バージェンズ海軍工廠で新造された旗艦26門コルベット艦サラトガ号(Corvette USS Saratoga, 734t, 1814)と、20門ブリッグ艦イーグル号(Brig USS Eagle, 500t, 1814)、さらに14門蒸気式スクーナー艦タイコンデロガ号(Schooner USS Ticonderoga, 350t, 1814)と砲艇数隻を1814年春までに建艦増強しました。 なお、米英戦争が勃発する前のアメリカ海軍は五大湖方面には小規模な船隊しか配備していませんでましたが、エリー湖(Lake Erie)にはオリヴァー・H・ペリー代将(Master Commandant Oliver Hazard Perry 1785-1819)の艦隊(エリー湖の戦い:スクーナー艦5隻、ブリッグ艦3隻、スループ艦1隻)、オンタリオ湖(Lake Ontario)にはアイザック・チャウンシー代将(Master Commandant Isaac Chauncey 1779-1840)の艦隊(オンタリオ湖の戦い(Engagements on Lake Ontario、別名:船大工の戦い):フリゲート艦2隻、スループ艦6隻、ブリッグ艦6隻、スクーナー艦12隻、砲艇数隻)、シャンプレーン湖(Lake Champlain)にはトーマス・マクドノー代将(Master Commandant Thomas Macdonough)の艦隊(Lake Champlain squadron、シャンプレーン湖の戦い:コルヴェット艦1隻、スクーナー艦1隻、ブリッグ艦1隻、砲艇10隻)を配備しました。
マクドノー司令官は自分の艦隊が人でも武器でも劣っていることを知っていたので、プラッツバーグ湾(Plattsburgh Bay)に引っ込んで水夫を訓練していました。そして、その艦隊が船首と船尾の碇を降ろして停泊していた時、1814年の春遅く、イギリス陸軍中将子爵ジョージ・プレボスト卿(Lieutenant General Sir George Prevost , 1st Baronet 1767-1816/1/5)がイギリス陸軍正規兵10,000人の軍隊と共にカナダのモントリアール(Montreal Canada)に到着。9/3には国境を越えて進軍、ニューヨーク北部へと迫っていました。1814/9/11にはイギリス海軍ドーニー大佐(Captain George Downie 1778-1814/9/11)の艦隊がプラッツバーグ湾に到着し、午前9時頃マクドノー艦隊に対して砲撃を開始。同時にイギリスの陸軍も砲撃を開始するも、プレボスト中将は総攻撃の攻撃命令を掛けませんでした。戦闘が始まった直後にドーニー大佐が戦死。マクドノー司令官は砲弾の衝撃を受けてほんの暫くの間、気を失いました。イギリス艦隊の乗組員は現地の経験が十分ではなく、湾の中での風の扱いに苦しんでいました。2時間後、マクドノーの旗艦サラトガ号やイギリス艦隊の旗艦コンフィアンス号 (HMS Confiance) を含め、両艦隊とも損傷を受けていない艦船はないくらいになりました。 マクドノー司令官は船首の碇を切り、船尾の碇を使ってサラトガ号を旋回させるように命令。こうしてマクドノー艦隊は敵に対して損傷を受けていない軍艦の船腹を向けて、新しい大砲を使い、酷く損傷したイギリスの軍艦に向き合わせることになりました。マクドノー司令官は自ら砲列甲板の指揮を執り、未使用で未損傷の左舷の大砲を発砲。新たな砲火が凄まじかったのでコンフィアンス号は反撃することができず、すぐに旗を降ろし砲火を閉じました。サラトガ号に乗り移ってきた捕虜のイギリス軍の士官はイギリス艦船のほとんどが航行不能か沈没した事態を受けて、マクドノー司令官に降伏の意志を伝えました。マクドノー司令官はイギリス軍の名誉ある降伏を承認しました。こうして出来たばかりの大陸軍アメリカ海軍が勝利を勝取りました。 ・シャンプレーン湖の戦いでの両軍の戦力:〜 アメリカ艦隊(United States Navy Squadron)の編成:〜戦闘艦(warships)14隻 艦隊司令官トーマス・マクドノー代将 (master-commandant Thomas MacDonough 1783-1825) シャンプレーン湖の英雄(Hero of Lake Champlain) ・旗艦コルベット艦サラトガ号 (Corvette USS Saratoga, 734t, 1814) 42ポンドカロネード砲6門、32ポンドカロネード砲12門、24ポンド長砲8門、212人乗組 (6×42-pounder carronades, 12×32-pounder carronades, 8×long 24-pounder guns) ・ブリッグ艦イーグル号 (Brig USS Eagle, 500t, 1814) 32ポンドカロネード砲12門、18ポンド砲8門、500屯、150人乗組 (12x32pounder carronades, 8x18pounder gun, 480t, 150men) ・蒸気式スクーナー艦タイコンデロガ号 (Schooner USS Ticonderoga, 350t) 32ポンドカロネード砲5門、18ポンド長砲4門、12ポンド長砲8門、350屯、112人乗組 (5×32-pounder carronades, 4×18-pounder long guns, 8×12-pounder long guns) ・スループ艦プレブル号 (Sloop USS Preble, 80t, 1813) 18ポンド砲2門、12ポンド砲7門、80屯、30人乗組 (2x18-pounders, 7x12-pounders, 30men) ・70屯ガレー砲艇(Row galley gunboats, 70t, 平均40人乗組)6隻 24ポンド長砲1門、18ポンドカロネード砲7門、 (1×24-pounder long gun, 1×18-pounder carronade) ・ボーラー号(Borer) ・センティピード号(Centipede:百足号) ・ネットル号(Nettle) ・アレン号(Allen, 70t, 40men) ・ヴァイパー号(Viper) ・バロウズ号(Burrows) ・40屯ガレー砲艇(Row galley gunboats, 40t, 平均26人乗組)4隻 12ポンド長砲1門 (1x12-pounder long gun) ・ウィルマー号(Wilmer) ・ラドロー号(Ludlow) ・エイルウィン号(Aylwin) ・バラード号(Ballard) イギリス艦隊(Royal Navy Squadron)の編成:〜戦闘艦(warships)16隻 艦隊司令官ジョージ・ドーニー大佐 (Captain George Downie, 1778-1814)、1814/9/11戦死 ・旗艦5等フリゲート艦コンフィアンス号 (Fifth-rate Frigate HMS Confiance, 831t, 325men)、1814/9/11捕獲後"USS Confiance" 32ポンドカロネード砲6門、24ポンド長砲30門、24ポンド長砲1門、500屯、150人乗組 (6×32-pounder carronade, 30×24-pounder long gun, 1×24-pounder long gun) ・スループ艦チャブ号 (Sloop HMS Chubb, 112t, 50men)、1814/9/11捕獲後"USS Growler" 18ポンドカロネード砲10門、6ポンド長砲1門、112屯、50人乗組 (10×18-pounder carronades, 1x6-pounder long gun) ・ブリッグ艦リネット号 (Brig HMS Linnet, 350t, 125men)、1814/9/11捕獲後"USS Linnet" 18ポンド長砲16門、350屯、125人乗組 (16×18-pounder long guns) ・スループ艦フィンチ号 (Sloop HMS Finch, 110t, 50men)、1814/9/11捕獲後"USS Eagle" 18ポンドカロネード砲7門、6ポンド長砲4門、110屯、50人乗組 (7×18-pounder carronades, 4×6-pounder long gun) ・70屯ガレー砲艇(gunboats Galley, 70t, 平均41人乗組)3隻 24ポンド長砲1門、32ポンドカロネード砲1門 (1×24-pounder long gun, 1×32-pounder carronade) ・70屯ガレー砲艇(gunboats Galley, 70t, 41人乗組)1隻 18ポンド長砲1門、32ポンドカロネード砲1門 (1×18-pounder long gun, 1×32-pounder carronade) ・70屯ガレー砲艇(gunboats Galley, 70t, 41人乗組)1隻 18ポンド長砲1門、18ポンドカロネード砲1門 (1×18-pounder long gun, 1×18-pounder carronade ) ・40屯ガレー砲艇(Row galley gunboats, 40t, 平均26人乗組)3隻 18ポンド長砲1門 (1×18-pounder long gun) ・40屯ガレー砲艇(Row galley gunboats, 40t, 平均26人乗組)4隻 32ポンドカロネード砲1門 (1×32-pounder carronade) ▼その後 1815/7/1にメーン州に有るポーツマス海軍工廠(Portsmouth Navy Yard, Kittery, Maine)の司令官をハル代将(Master Commandant Isaac Hull 1773-1843)から引継ぎました。3年後の1818年に地中海艦隊(Mediterranean Squadron)に44門1等フリゲート艦ゲリエール号(First class frigate USS Guerriere, 1508t, 400men, 1814)艦長で合流するも、同年4月に結核を発病しました。米国に帰国してニューヨーク海軍工廠(New York Navy Yard)で74門戦列艦オハイオ号(ship of the line USS Ohio, 2724t, 840men, 1820)に艦長(在任1818-1823)で座乗。1822年秋に西ニューヨーク旅行でナイアガラの滝を見学しました。その後ヨットのような平底川舟バトー艇(Bateau)でセントローレンス河を下って、カナダのケベックへの旅を楽しみました。
1900年には米国の駆逐艦に、彼に因んでマクドノー号(Destroyer USS Macdonough 440t)と命名され、第1次世界大戦(1914-1918)に従軍しました。 参考:〜 ・プレブルボーイ(Preble's Boys、プレブル士官):〜14人 プレブルボーイとはトリポリ港の戦い(1804)でアメリカ艦隊の指揮を執った第3次アメリカ海軍派遣艦隊司令官(任期1803/10/3-1804/9/10)エドワード・プレブル(Edward Preble 1761-1807、艦隊の基地:シチリア島のシラクサ)が育てたプレブル士官(Preble's Boys)達のこと。 ・アイザイック・ハル(Isaac Hull 1773-1843) ・ステアン・ディケーター(Stephen Decatur ) ・ジェームス・ローレンス(James Lawrence 1781-1813) ・ウィリアム・ベインブリッジ(William Bainbridge ) ・ヤコブ・ジョーンズ(Jacob Jones 1768-1850) ・アイザック・チャウンシー(Isaac Chauncey 1772-1840) ・ダヴィッド・ポーアー(David Porter ) ・ウィリアム・バローズ(William Burrows ) ・ジョンストン・ブレークリー(Johnston Blakeley 1781-1814) ・ウォリス・ウォリントン(Lewis Warrington 1782-1851) ・ジャームス・ビドル(James Biddle ) ・チャールス・スチュワート(Charles Stewart ) ・トーマス・マクドノー(Thomas Macdonough 1783-1825) ・ステファン・カシン(Stephen Cassin 1783-1857) これらの若手士官達は「プレブル・ボーイズ」(Preble's boy)と呼ばれ、米英戦争時に有能な艦長として活躍しました。 参考HP:〜 ・シャンプレーン湖の場所地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2015/6/15 |