世界遺産(インド)
タージ・マハ−ル
 Taj Mahal

INDIA POSTAGE
タージ・マハ−ル

タージ・マハ−ル全景
インド 1949/8/15 発行
日本 NIPPON
タージ・マハ−ル

海外の世界遺産シリーズ

日本 2013/3/14 発行

タージ・マハール
  Taj Mahal

 世界遺産:ユネスコの文化遺産(1983)
        (UNESCO World Heritage Site, Type:Cultural)
 正式名称:日:タージ・マハール
        英:Taj Mahal
        仏:Le Taj Mahal
タージ・マハールはインドを代表する建築美で、インドを代表するイスラム建築タージ・マハールはその美しい白大理石の巨大な建造物です。壁面のアラベスク模様、華麗な浮き彫りや透かし彫りなど、細部まで完璧な芸術作品となっています。それは北部インドのウッタル・プラデーシュ州アグラ市(Agra, Uttar Pradesh)のヤムナ河(Yamuna 1,376km)岸に建てられています。ムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンは最愛のお妃ムムターズ・マハール(Mumtaz Mahal 1595-1631)が亡くなったことを悼んで、廟(22年の歳月をかけて作らせた墓)を建てました。タージ・マハールはムムターズ・マハールが変化したもので「宮廷の冠」をも意味しています。「タージ」は妻の名「ムムターズ」が変化した名前です。

タージ・マハールは白大理石の美しい墓廟。満月の夜は特に幻想的。インド産の大理石やペルシャなどの貴石で造られていて建物の地下に夫婦の棺が安置されている墓廟です。中央建物の中には一般の人も見学出来ますが、中はイスラム教の特色である光が入り込むだけで、かなり薄暗くなっています。

1632年に着工し、1653年に完成しました。毎日2万人が建設作業に参加したといわれ、ペルシャやアラブから選りすぐりの建築家や職人が集められ、破格の給与が支払われたともいわれています。この建設のために国家財政が傾き、シャー・ジャハンは息子に軟禁されてしまいました。

シャー・ジャハンは自分のために、黒大理石を使って同じ物を作ろうとしていました。実はタージ・マハールは白大理石と黒大理石の廟とがヤムナ川をはさんで建てられ、その二つを大理石の橋で繋いだ壮観な廟となる予定でした。しかし、白い廟が出来上がった後にシャー・ジャハーン自身が病気になり、さらに4人の皇子の間での帝位継承争いの末に、第3皇子のアウラングゼーブ(Aurangzeb, 1618-1707)によってアグラ城に幽閉されてしまったために、黒い廟は出来上がりませんでした。

タージ・マハールはインド観光の目玉的存在で、年間400万人(うち外国人は20万人)の観光客が訪れ、デリーからは約200Kmあり、車でハイウェイを行くと5時間ほどかかります。世界最大の大理石建築の文化遺産のあるインドのアグラ市は、タージ・マハールのある町として有名です。アグラへは首都デリーから特急で約2時間。

・白大理石の劣化
1980年代前半から、タージ・マハールの命であるともいえる白大理石の劣化が目立つようになりました。この遺跡を管理するインド考古調査局(ASI)によると、これは自然現象と人為的な環境変化による原因が考えられるといいます。この地方は一日の気温差が激しく、温度変化により、大理石は収縮・膨張を繰り返し、長年のうちに亀裂、剥落、ひび割れが発生します。また、雨による湿気がコケを付着させたり、石の隙間に付着した種子の発芽を促し、石を劣化させ、割ってしまう危険性があります。周辺の森林減少が気温差の拡大に拍車をかけているとも指摘されています。工業地帯からの大気汚染も石の劣化につながります。アグラの隣町マトゥラー(Mathura, Uttar Pradesh)の工業地帯から排出される窒素酸化物など有害物質が白大理石の劣化を進めていると指摘されています。インド政府は1995年に、これらの工場の一時閉鎖命令を出しました。生活の糧を失いかねないという危機に立たされた工場労働者たちは激しく反発しましたが、いまだに操業が再開されていない工場もあります。タージ・マハールを守るための効果的対策は考え出されていません。政府は文化遺産保護と経済発展・雇用促進の板挟みになっています。大気汚染は工場だけが引き起こしているのではなく、増え続ける自動車の排気ガスも問題であると指摘する専門家もいます。

・シャー・ジャハーン
 (Shah Jehahn 世界の王の意味 1592〜在位1628〜1658〜1666年)

ムガル帝国第5代皇帝。父ジャハーンギール(Jahangir、在位1605-1627)の統治時代に父政権に反乱をおこし、父の死にさいし皇位継承が危ういときに、妻の父アーサフ・ハーン(Abul-Hasan Khan)のとりなしで、1628年皇帝の位につきました。国内統治には有能であり、ムガール帝国としては政治的安定期を迎え、最盛期となりました。後世、ムガル時代の傑作とされる数々の建築物が造られました。まず、妃ムムターズ・マハルのためのタージ・マハール廟があります。さらに、彼はこれまでの首都アグラとは別に、デリーに壮大なデリー城の建設を命じました。赤砂岩でつくられたデリー城は、ガンジス川の支流ジャムナ川(Jumna(Yamuna)、160km)に面し、こんにちのオールド・デリーと呼ばれる一画に有。1648年完成後、彼はここに移りました。赤い色をした城壁にちなみラール・キフ(Red Fort:赤い城、2007年にユネスコ世界遺産)と呼ばれます。また、城内の宮殿のディーワーネ・アーム、ディーワーネ・ハースという二つの謁見の間は有名で、後者の特別の謁見の間の壁面に「地上に天国があるとすれば、それはここだ」と装飾で記されています。シャー・ジャハーンは大きな遠征をしました。まず、デカンのビャージャープルとゴルコンダの2王国にむけて軍を送り、1636年、2王国ともムガルの至上権を認めて、自立を保ちました。また、1646〜1647に中央アジアのバルーヘ遠征軍を送るも、失敗しました。さらに、1652年にはサファヴィー朝ペルシアにとられたアフガニスタン南部の要衝の地カンダハールを奪回すべく遠征軍を送るも、これも失敗しました。対外遠征はいずれも失敗するも、帝国の首都や皇帝のすぐまわりでは、最高度の豪華さが喜ばれ、インド産の当時世界最大のダイヤモンドがはめられ、最高の贅を尽くした所謂「孔雀の玉座」がつくられたのもこの時代です。しかし、シャー・ジャハーンの晩年は悲惨で、1657-1658年の4王子たちの皇位継承戦争後、アグラ城に幽閉され、1666年に寂しく亡くなりました。

・ムガール帝国の興亡(略史)
  (Mughal Empire, 1526-1858、トルコ系イスラム王朝)
1526 バーブル(Zahir-ud-din Muhammad Babur 1483-1530)がムガール帝国創始
1558 首都をデリーからアグラへ遷都
1564 アグラ城建設(〜1574)
1600 イギリス、カルカッタに東インド会社設立
1628 シャー・ジャハーン(1592-1666)即位
1631 ムムターズ・マハル(1595-1631)没
1632 タージ・マハル着工(〜1653年完成)
1648 デリーへ再び遷都
1858 最後の皇帝バハドゥール・シャーがイギリスにより退位させられ帝国滅亡
1877 イギリス領インド帝国成立
1947 インド独立。ネルー首相就任(8月)、
    パキスタン独立(8月)、英領インドは事実上消滅
・ガンジーの主張した「大インド」は実現せず
・分離独立:1947年、英領インドは、インドとパキスタンにそれぞれ分離独立(この時点ではパキスタンはインドの東西に国土を持っている。このうち東パキスタンが後に独立してバングラディッシュとなる)。インドは政教分離国家、パキスタンはイスラム(ムスリム)国家として出発することとなった。このため、パキスタンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒がインドへ、インドとなった地域に住んでいたイスラム教徒がパキスタンへ、それぞれ着の身着のままで大移動を開始するという事態が起きた。両国あわせて1500万人もの人々が移動したと言われている。この移動の過程で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が各地で衝突を繰り広げ、100万人近い人々が殺害されたと言われている。この時の憎しみが、現在も印パ両国の対立に尾を引いている。

こちらで世界遺産の
ゴレ島 (セネガル)
ヌビア遺跡 (エジプト)
パルテノン神殿 (ギリシャ)
法隆寺 (日本)
をお楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        10/10/10、14/10/10

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