Denmark 国連 1988 発行 |
16世紀の天文学
ティコ・ブラーエ ”Tycho Brache” |
大航海物語 ★参考資料 |
DANMARK ティコ・ブラーエ 1546 ティコ・ブラーエ生誕400年記念 1946 デンマーク 1946 発行 |
天文台 | カシオペア座とティコの星 アセンション 1971/2/15 発行 |
四分儀 |
上の切手はアセンションより「天文学の発達と宇宙開発」として、 発行された14種の内の1種で”TychoBrahe”の天文台と大型の「四分儀」と、1572年に彼が発見したという星が描かれています。 |
ティコの天文台 |
ティコの半径3mの四分儀 |
デンマーク 1995 発行 | |
ティコ・ブラーエはデンマーク・ヘルシングルポル城主の長男で、望遠鏡が発明される前の天文学者、肉眼による最大の天体観測者です。1572年にカシオペア座の超新星”ティコの星”を発見。1578年国王がティコのためにペーン島にウラニボル天文台を設立。ティコは半径3mの四分儀(子午線儀の原型)などを考案設置。1588年地動説と天動説の折衷案を主張。1596年ドイツへ亡命。ケプラーと出会って1年半後に亡くなりましたが、ティコの20年間にわたる火星観測記録がケプラーによる整理研究で”惑星公転の三法則”発見の基礎資料となりました。 |
ティコ・ブラーエ (1546/12/14〜1601/10/24) Tycho Brache ティコ・ブラーエはデンマークの貴族のヘルシングルポル城主の長男で生まれ、”Tyge Ottesen Brahe”と名付けられ、長じてロストック大学で学びました。1572年にカシオペヤ座に超新星(SN 1572:通称「ティコの新星」)を発見し、肉眼で確認できなくなるまでの14ヵ月間観察を続け、記録を残しました。ティコの才能を認めたデンマーク王フレゼリク2世(Frederick II, 1534-1588):デンマークとノルウェーの国王(在位1559-1588)の支援を受け、ベーン島にウラニボリ天文台、ステルネボリ天文台を建設し大量で精密な観測記録を残しました。 フレゼリク2世が没すると、1599年に神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(Rudolf II.、1552-1612、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝:在位:1576-1612)の皇室付帝国数学官に迎えられ、チェコ(Praha、Czech Republic)のプラハに移住しました。ケプラーは1600年にティコと出会い、弟子であり共同研究者になりました。 ティコは、1577年に出現した彗星についても多くの観測結果を残し、その現象が月よりも遠方で起きていることを証明。この彗星の観測結果と、さきの新星の発見は、月より遠方ではいかなる変化も起きないと考える天動説を覆す重要な証拠となりました。彼の残した膨大な天体の観測結果は、望遠鏡が使用される以前の肉眼による天体観測としては、最高の精度を誇るものでした。ただし彼自身は、地動説が正しければ当然観測されるであろう年周視差が観測できなかったことから、地動説には否定的な立場をとり、「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公転している」という「修正天動説」を提唱しました。 ティコの最期については、晩餐会でトイレに立つのを我慢しすぎて膀胱破裂で死んだという話がよく知られていますが、1990年代、遺髭を調べたところ水銀が大量に検出されたことから、水銀中毒が死因であるとの説が新たに唱えられています。彼の最後の願いは、「歴史に名を残したい」でした。本人は自身の観測記録をまとめる前に病死し、ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler、1571-1630)がその記録を解析し、ケプラーの法則を発見して、ブラーエの願い通り天文学史に名を残すことができました。 参考:〜
・調和の法則 惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。 先に、第1法則および第2法則が解明されて1609年に発表され、後に、第3法則が解明されて1619年に発表されました。 ・超新星 Supernova 超新星は大質量の恒星がその一生を終えるときに起こす大規模な爆発現象のこと。 こちらで ・天文学の発達と宇宙開発 ・へび座 わし星雲 (Eagle Nebula) ・トレミーの48星座 をお楽しみください。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 10/11/30、18/4/15, 2019/10/10 |