★ロシア |
マカロフ提督
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大航海物語★ |
CCCP マカロフ提督 ソ連 1989/12/28 発行 |
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19世紀スクリュー式蒸気帆船のロシア戦艦 Frigate Varadimir 1848 ソビエト連峰 1971/12/15 発行 |
20世紀初頭のロシア戦艦 ポチョムキン号、1905年 Potemkine 1905 マリ 1971 発行 (200%) |
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DDR マミヤ(タタール)海峡↓ |
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ロシア帝国の 軍 艦 旗→ 白地に青色線 大 砲→ イカリ→ |
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→旅順港 | ←樺太(サハリン) ←北方4島(千島列島) ←宗谷海峡(ラ・ぺルーズ海峡) ←北海道 ←小笠原諸島 ←マリアナ諸島 |
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北朝鮮 2001/10/23 発行 小型シートより |
マカロフ提督ははロシア帝国海軍中将で、艦隊司令官、海軍科学者でした。無煙火薬と、装甲貫通を阻止する防御装甲を導入。居住区域の水漏れ防止理論で改良。鉄鋼装甲艦の建造、魚雷・海軍砲術の爆発改良に貢献。海軍の戦略・戦術的運用など50冊以上の著述を発表し、帆船の時代は終わりを告げました。 やがて、露日戦争が勃発し、中国の遼東半島”旅順”が大日本帝国海軍の奇襲攻撃で炎上後、旅順の軍司令官に就任して、大日本帝国軍を震え上がらせました。 |
ステファン・オシポヴィッチ・マカロフ海軍中将 (1849/12/27〜1904/3/30) Vice-Admiral Stepan Osipovich Makarov マカロフ提督はロシア帝国の領土だったウクライナのヘルソン県ニコラエフ(現:ムィコラーイウ)で海軍准士官(praporshchik)の家庭に生まれました。父の転属に伴い、極東アジアのロシア・ハバロフスク地方ニコラエフスキー地区の行政中心都市でアムール川の河口から80km上流にある港湾都市ニコラエフスク・ナ・アムーレ(Nikolayevsk-on-Amur)に行き、1858年に9才でニコラエフスク航海士学校に入学しました。1865年に16才で航海士学校を首席で卒業しましたが、父の希望により航海士ではなく、ロシア帝国海軍に入隊して海軍士官学校生徒(cadet)になり、クリッパー帆船(clipper)に乗船し、1866年に太平洋艦隊に配属され、同年にコルヴェット帆船艦アスコルド号(corvette Askold)に乗艦して、極東アジアのウラジオストック(Vladivostok)から喜望峰を回って、フィンランド湾のコトリン島の軍港クロンシュタット(Kronstadt)への航海に従事しました。1867〜1876年の間に(1872年にバルチック艦隊配属)、バルチック艦隊(Baltic Fleet)でポポフ提督(Admiral Andrei Popov、1821-1898)の副官(flag captain)を務めました。1876年に黒海艦隊(Black Sea Fleet)に転属となりました。 マカロフ提督の大航海:〜 ・1886〜1889年、第1回世界一周航海、コルベット艦ヴィーチャシ号 ・1894〜1896年、第2回世界一周航海、コルベット艦ヴィーチャシ号 ・1899年、北極海探検航海、砕氷艦エルマーク号 ・1901年、北極海探検航海、砕氷艦エルマーク号 ・1904年、露日戦争勃発、石炭蒸気機関・鉄鋼装甲戦艦ペトロパヴロフスク号 ▼露土戦争(Russo-Turkish War 1877-1878) クリミア戦争(Crimean War、1854-1856)後の1877/4/24にロシア帝国がオスマン帝国に宣戦布告して起こった露土戦争が勃発すると、マカロフ提督はロシア水雷艇母艦(Russian tender)ヴェリーキー・クニャージ・コンスタンチン号(Velikiy Knyaz Konstantin、2,500t、12.7knots、9ポンド砲4門装備、石炭蒸気機関)の艦長として黒海で従軍しました。マカロフ提督は露土戦争において、自分の水雷艇戦術理論を実践しました。1877/1/16にトルコの仮装巡洋艦インティバフ号(Intibah)に対して魚雷による世界最初の対艦攻撃を実施し、ロシア海軍における水雷艇運用・戦術論に関する第一人者になりました。 ▼世界一周航海(1886〜1889、Round-the-world oceanographic expeditions) 1886年にコルベット艦ヴィーチャシ号(corvette Vityaz)の艦長に就任、1886年から1889年に世界一周航海。1890年に41才で海軍少将(Rear Admiral)に昇進し、バルチック艦隊最年少の提督となり、1891年に海軍砲術(naval artillery)の主任監察官(major inspector)になりました。1894年にスクリュウ式石炭蒸気機関の鉄鋼装甲戦艦ニコライ1世号(Nicholas I、9672t、士官:31人と水兵・准士官:585人)に座乗しました。1894年から1896年に2回目のヴィーチャシ号での世界一周航海。2度に渡る航海では、総合的な海洋調査を実施し、研究の成果を「ヴィーチャシ号と太平洋」にまとめて発表しました。 1895年に極東アジアに転属・赴任して、太平洋艦隊司令長官に就任。1896年に海軍中将(Vice-Admiral)。1899年に砕氷船を構想し、世界最初の砕氷艦エルマーク号(icebreaker Yermak)の建造を監督しました。そして、砕氷艦エルマーク号で1899年と1901年に北極海探検航海(arctic expeditions)を実施しました。 ▼露日戦争勃発(Russo-Japanese War、1904/2/8-1905/9/5、大日本帝国勝利、ポーツマス条約) 1904年に露日戦争が勃発すると、旅順に奇襲攻撃を受けた責任を追及されて解任されたオスカー・スタルク(Oskar Victorovich Stark 1846-1928)司令長官の後任として、2/24にマカロフ提督が第一太平洋艦隊(First Pacific Squadron)司令官に就任。「マカロフ爺さん」と将兵に親しみをこめて呼ばれました。ロシア海軍随一の名将と名を馳せていたマカロフの着任は大日本帝国側にとってはひとつの脅威となりました。1904/3/31に大日本帝国海軍の連合艦隊による旅順港閉塞作戦でポート・アーサー(Port Arthur、旅順港)に封鎖され、封鎖のために敷設した機雷によって、マカロフ提督座乗の第一太平洋艦隊旗艦の鉄鋼装甲戦艦ペトロパヴロフスク号(Petropavlovsk、11,536t、16.8knots、石炭蒸気機関)が触雷・爆沈し、マカロフ提督は将兵500人と共に戦死しました。 マカロフ提督を称える記念碑(memorial plaque)が、生地であるウクライナのムィコラーイウやロシアのクロンシュタットにある他、いくつかの艦船にはアドミラル・マカロフ(マカロフ提督)の艦名がつけられました。最期の乗艦は戦艦ペトロパヴロフスク号で、帆船ではなく、石炭蒸気機関による近代的鉄鋼戦艦でした。 参考HP:〜 中国の遼東半島の地図(最西部(突端部)に旅順港あり) 旅順港の地図 上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 09/8/20 |