★ロシア
ポチョムキン号
1905年
ロシア戦艦

大航海物語★
CCCP REPUBLIQUE de MALI
ロシア帝国の
軍 艦 旗→
白地に青色線



大 砲→
イカリ→

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20世紀初頭のロシア戦艦
ポチョムキン号、1905年


Potemkine 1905
マリ 1971 発行 (200%)
ソ連 1989/12/28 発行

ポチョムキン号、帝政ロシア戦艦、1905年
  Russian battleship Potemkin
ポチョムキン号は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」(クニャースィ・パチョームキン・タヴリーチェスキイ)=「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」号という意味の名前が付けられたロシア帝国で建造された戦艦で、ロシア第1革命の時期(1905)に水兵による叛乱が起こったことで世界にその名を知られ、「戦艦ポチョムキン」という略称で呼ばれるようになりました。

ポチョムキン号の諸元:〜
・竣工:1905/5/20、排水量:12900t、船体長:113.2 m、幅:22.2m、喫水:8.4m
・乗員:731人、内:士官26人、第36海兵団:砲術士、機関士、水雷術士、他
・巡航速度10 knでの航続距離は、3600 浬で、
・燃料搭載量:満載950 t、最大1100 t(内:石炭:340t)
・飲料水の搭載量:14日分、食料:60 日分搭載
・主砲:1基当たりの重さ:43t、4門の40口径305mm砲を連装砲塔2基に装備で、
    砲塔の装甲は最大254mm
・中間砲:重さ:5tの45口径152mm砲で、単装砲架で16 門搭載、
      両舷の装甲砲座(砲廓、ケースメート)に装備され、127mmの装甲
・小口径砲:75 mm速射砲が甲板上や装甲砲座、マストのファイティングトップに装備され、
      機関銃もマスト上に装備され、魚雷発射管も装備
・装甲:イジョール工場製の超軽量ニッケル鋼
・所属:ロシア帝国海軍黒海艦隊

ポチョムキンの叛乱:〜
▼叛乱突発の原因
1904/2/8に勃発した日露戦争(1904/2/8〜1905/9/5)で、1905/5/27に日本海海戦(Battle of Tsushima)が勃発してロシアのバルチック艦隊が全滅・敗戦したので、ロシア海軍の士気は地に落ちていた。そこへ、6/14にポチョムキン号がはセヴァストポール港から出て、テーンドル湾の沖合い停泊地で武装の射撃試験を行っていた時、昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたので、それに対し水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。

艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコが選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。

反乱蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキン号の射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は革命の象徴として赤旗を掲揚。6/14の14時00分にポチョムキン号の乗員は革命を宣言。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着。

オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキン号の水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキン号の蜂起の最初の指導者で銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀を行った。その後、ポチョムキン号は皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行ったが、砲弾は街中に落下して市街地を破壊する結果となった。このような不徹底な、いわばたんなるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。

6/17になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになり、鎮圧艦隊は黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドゥヴィーナドサット・アポストロフ号(Dvienadsat Apostolov、十二使徒)、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ号(Tri Sviatitelia)、水雷巡洋艦カザールスキイ号、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇らが編成された。ロシア皇帝ツアー・ニコライ2世はポチョムキン号の叛乱を危険なものであるとみなして、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を航行するのを許せないと考えて、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を命じた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーン司令官は、クリーゲル海軍中将に事態に対処するよう命じ、司令官代理に任命した。

6/18の早朝にオデッサ港の停泊地にいたポチョムキン号では、乗員たちが町に向けて大規模な鎮圧艦隊が接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には5 隻の装甲艦と6 隻の水雷艇の姿が見えた。上級指揮官クリーゲル司令官代理の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃と砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。ポチョムキン号は鎮圧艦隊に向かって出港したが、他の艦艇でも蜂起に賛同した動きが表れることを期待して、自分から発砲しないことが決議された。交渉のため鎮圧艦隊に来るようにとの申し出を拒絶したポチョムキン号の水兵らは、今度は鎮圧艦隊の指揮官をポチョムキン号へ招く申し出をした。クリーゲル司令官代理の乗った旗艦ロスチスラフ号(Rostislav)では、「投錨せよ」という信号旗が掲げられた。その返答として、ポチョムキン号はロスチスラフ号の衝角の前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路を変更し、ポチョムキン号は装甲艦ロスチスラフ号と、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャ号のあいだを航行した。そして、衝角を警戒しつつ、脇へと去った。ポチョムキン号は将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行したが、砲撃はしなかった。鎮圧艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否して、上官たちが禁じていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキン号に「万歳!」の歓声を送って挨拶をした。乗員の気運を危惧したクリーゲル司令官代理は全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を発した。

ポチョムキン号のもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツ号が留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツ号の乗員はポチョムキン号の乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し反乱蜂起に合流した。 しかし、後にゲオルギー・ポベドノーセツ号の水兵たちのあいだには仲間割れが生じて、ポチョムキン号のもとを離れ、艦を政府に引き渡した。このことが、ポチョムキン号の水兵たちに重大な危惧を残した。彼らのあいだに不満が募り始めた。ポチョムキン号が鎮圧艦隊との2度目の遭遇からオデッサ港に戻ると、街は彼らに水と食料を与えることを拒否。長い議論の末、彼らは黒海の対岸にあるルーマニアへ出港することを決議した。

6/19にポチョムキン号は第267号水雷艇を伴ってルーマニアのコンスタンツァ港に到着しが、ルーマニア政府はポチョムキン号に必要物資を提供するのを拒んだ。革命艦ポチョムキン号は、フェオドーシヤ港へ引き返すことになった。ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキン号は、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤ港へポチョムキン号が辿り着いたのは1905/6/22朝6時のことだった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵隊が待ち構えていた。上陸した水兵の一団は銃火を浴びせられた。そのため、ポチョムキン号は再びコンスタンツァ港に向けて出港し、6/24にコンスタンツァ港に到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストポール港に向けて出港した。6/26には、コンスタンツァ港へ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日にルーマニアはロシアへポチョムキン号を返還した。7/1にポチョムキン号はセヴァストポール港に到着した。

1905/9/30、正教会の聖人に因んでパンテレイモン号(Panteleimon)に改名
1905/11月、セヴァストーポリの蜂起がに発生し、パンテレイモン号は再び蜂起側に就いた
1905/11/13、パンテレイモン号は叛乱した艦船に合流するも、鎮圧され、失敗に終わった
1907/9/27、海軍の類別法で艦種を「艦隊装甲艦」から「戦列艦」に改名
1910年、セヴァストーポリ港でのオーバーホールで船体と機関の修理を受けた
1911/10/2、コンスタンツァの沖合い停泊地から出港する際に浅瀬に乗り上げた
1912年、セヴァストーポリ港にて水線下の修理を行った。
1913年、黒海艦隊の全艦艇を圧倒できる弩級戦艦がオスマン帝国に配備される
1914/7/28、第1次世界大戦(1914/7/28〜1918/11/11)が勃発
        パンテレイモン号は第2戦列艦戦隊所属艦として戦闘に参加
1914/11/5、サールィチ岬の海戦(Battle of Cape Sarych、1914/11/5〜18、黒海のサールィチ岬沖、ドイツ・オスマン帝国艦が敗走)ではいよいよオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤヴズ・スルタン・セリム号(Yavuz Sultan Selim=Sultan Selim I=独:Goeben、22,979t)および軽巡洋艦ミディッリ号(Midilli=独:SMS Breslau、4,550t)と対峙することになったが、パンテレイモン号は煙霧のため敵艦を視認できず、発砲しなかった。その後も、パンテレイモン号は他艦と交代でしばしばボスポラス海峡を航行
1915/4/28、ヤヴズ号とエフスターフィイ号のあいだで海戦が発生。このときにエフスターフィイ号に同行していたパンテレイモン号も敵艦目掛けて発砲、104鏈の距離から発射された砲弾は命中せず敵艦まで届かず、続いて発砲した第2撃が敵を脅かし、砲弾がゲーベン号の艦尾後方に着弾。また別の砲弾は後部煙突の辺りに命中し、さらに第3の砲弾が砲塔に命中。砲弾は濛々たる黒煙を上げて爆発し、赤い火の手が上がるのが見えた。
1916/2/5〜4/18、トラペズンド攻略作戦で活躍。

1917年初め、事実上黒海艦隊の軍事行動は停止。パンテレイモン号は他の艦船とともに自分の母港であるセヴァストポール港に停泊し、ロシア2月革命の後、セヴァストポール港では黒海ウクライナ軍事委員会、労農黒海艦隊中央委員会(ツェントロフロート)、軍人労働者代表会議が設置された。パンテレイモン号では、他の多くの艦船におけるのと同様、ウクライナ人組織が結成され、ウクライナ人水兵は黒海艦隊のウクライナ化とウクライナ艦隊の創設の実行をウクライナ中央ラーダに対し強く要求。

1917/3/31、艦名はポチョムキン=タヴリーチェスキー号に改名。これは1905年の水兵の蜂起を記念するための改称であったが、「公爵」という貴族の称号は除去された。しかし、艦名のそもそもの由来となったポチョムキン公爵がウクライナの圧政者であったこともあり、この艦名は長くは使用されず、
1917/4/28、「自由の戦士号」(ボレーツ・ザ・スヴォボードゥ=バリェーヅ・ザ・スヴァボードゥ)に改名

1917/10/12、戦列艦ヴォーリャ号司令艦ゲオルギー・ポベドノーセツとともに自由の戦士号艦上にはウクライナ国旗が掲げられた。ウクライナの国旗の下でも、艦名はそのまま自由の戦士号(ボレーツィ・ザ・スヴォボードゥ=ウクライナ語:ボレーヅィ・ザ・スヴォボードゥ)を名乗っていた
1917/12月、ボリシェヴィキがウクライナへ侵攻を開始した
1917/12/16、自由の戦士号は赤軍の管理下に入った
1918/2/21、「社会主義の祖国は危機にある」との人民委員会議布告が出され、非常事態宣言がなされた。この布告では、「敵の工作員、投機者、泥棒、ならず者、反革命扇動者、ドイツのスパイは現場で銃殺を命令」とされており、廃止されていた死刑が全面的に復活された。セヴァストポール港にあった自由の戦士号では、この宣言に従い乗員が「すべてのブルジョワジーを根絶する」と決議し、3昼夜のあいだに高級将校や知識人ら約600人を殺害するという事態に至った。殺害は赤軍がセヴァストーポリを放棄する3月末まで続いた。
1918/12/14、当時セヴァストポール軍事革命委員会議長であったユーリイ・ガーヴェンが党中央委員会へ行った報告によれば、大量殺害は彼の命令によるものであった
1918/2月、中央ラーダが中央同盟国(第一次世界大戦時に連合国(協商国)と戦った諸国)と
       ベレスチャ条約(反ボリシェヴィキ共同戦線)を締結して反撃を開始し、
       3〜4月にクリミア作戦でクリミア半島を奪還。
1918/3月、ウクライナからの撤退の準備を始めた赤軍は、
       自由の戦士号を保管状態に置き、セヴァストポール軍港に放置
1918/4月、セヴァストポール港では港湾労働者と工場労働者による
       2度の反ボリシェヴィキ蜂起が発生した。艦隊の水兵は積極的に支援した。
1918/4/22、黒海艦隊司令官のムィハーイロ・サーブリン海軍少将によって「すべての船舶、クリミア半島にある港湾施設は、ウクライナ人民共和国の管轄下にあり。よって、必要箇所についてはすべて、ウクライナ国旗を掲揚すべし」とする宣言が発令された。
1918/4/29、自由の戦士号では他のすべての黒海艦隊艦船および要塞に於るのと同様、ウクライナ国旗が掲揚された。同日、ヘーチマンの政変で共和国が倒されウクライナ国が建国された。自由の戦士号は、パウロー・スコロパードシクィイの治世において、ウクライナ国海軍に所属した。しかし、1918年を通じて自由の戦士号は活動せず、長期の保管状態に置かれたままであった。一説には乗員が不足したためだとも言い、艦の一部を新しい弩級戦艦のために供出してしまったためだとも言われる。
1918/11/24、セヴァストポール港で侵攻したイギリス・フランス干渉軍によって拿捕された
1919/4/22〜4/29の間、イギリス軍司令部の命令で他の艦とともに機関を爆破され、武装を撤去されて、イギリス軍はクリミアから撤退。自由の戦士号はセヴァストポール港の南湾に放置された。
1919/4/29、ボリシェヴィキがクリミア半島を占領した際には、赤軍ウクライナ戦線の部隊に奪取され、
        ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国赤色海軍に編入された。
1919/6/24、義勇軍が奪取
1920/11/15、最終的にソヴィエト権力がセヴァストポール港に建設されたが、ひどい損傷を負った旧式艦を修理するだけの利点が見出されなかったため、現役への復帰は叶わなかった。
1923年、蜂起の実情をよく覚えていたレーニンによって解体の指示が出された。
1925/11/21日付、赤色海軍から除籍された。

ソ連時代、ポチョムキン号の叛乱は革命の神話にされ、この題材を扱った作品はセルゲイ・エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」(原題:装甲艦ポチョムキン)で、実際のポチョムキンの叛乱20周年である1925年に、わずか3ヵ月というハードなスケジュールで撮影された。この年の春、ロシア第一革命20周年記念映画として映画「1905年」の製作の過程でポチョムキンの叛乱にスポットライトを当てた形で完成。イギリスの歴史家で作家のリチャード・ハフによるドキュメンタリー小説"The Potemkin Mutiny"が、1961年に英語で出版され、日本語訳は由良君美による「戦艦ポチョムキンの反乱」で、1962/12月に筑摩書房の「世界ノンフィクション全集37」で、その後2003/10月に講談社学術文庫から文庫本として出版されている。

▼ポチョムキン号の所属の変遷:〜
・1905/5/20、ロシア帝国海軍黒海艦隊に竣工と同時に所属
・1917年、臨時政府黒海艦隊
・1917/12/29、赤色黒海艦隊
・1918/1月、ウクライナ人民共和国海軍
・1918/5/1、ドイツ帝国海軍
・1918/8月、ウクライナ国海軍
・1918/11/24、イギリス海軍、拿捕
・1919/4/29、赤軍ウクライナ戦線
・1919/6/24、南ロシア軍
・1920/11/15、赤色黒海艦隊
・退役:〜1923年
・除籍:〜1925/11/21
解体されたポチョムキン号のマストは、ドニエプル=ブーフ潟にて灯台の基部として40年近く使用され、その後、前檣は永久保存のためレニングラード(現サンクトペテルブルク)の中央海軍博物館に委譲され、後檣はオデッサ郷土史博物館へ委譲された。そして、そこで現在まで保存展示されている。

参考:〜
ロシア革命 (1905、1917)
 Russian Revolution

ロシア革命とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。特に、史上最初の社会主義国家樹立につながった十月革命を指す場合もある。逆に、広義には1905年のロシア第一革命もロシア革命に含められる。 なお、「二月革命」、「十月革命」は当時ロシアで用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」、「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレオリオ暦の月日に換算できる。

参考HP:〜
 ・セヴァストポールの場所地図
 ・クリミヤ半島のセヴァストポールの場所地図
 ・黒海の地図

・上記々述はこちらの文献などを参考とさせてもらいました。     09/12/30
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