大航海物語 |
ケ シ Peece Keeping Operation Against Drug 麻薬撲滅 |
参考資料 |
UNITED NATIONS Geneva 麻薬撲滅・平和維持活動 鉄条網とケシの花(ポピー:Poppy) Peece Keeping Operation 国連ジュネーヴ 1975/11/21 発行 |
Peru 麻薬撲滅
ペルー 2001/9/7 発行 |
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日本 Nippon 芥子の花 四季の花シリーズ(中村芳中) 日本 1993/3/12 発行 |
U.S. Postage 第1次大戦戦没者ポピー基金設立
USA 1948/11/9 発行 |
・ケシ (Poppy) 和名:芥子 英名:Opium poppy (アヘンケシ) 学名:Papaver somniferum、(ソムニフェルム種) ケシはケシ科ケシ属の一年草の植物で、日本語のケシは英語のポピー(poppy)と同義とされますが、英語では単にポピーといえば、イギリス各地に自生する園芸種として栽培されているヒナゲシ(Corn poppy)を指しています。英語ではケシをオピューム・ポピー(Opium poppy)と呼んで、ポピー(poppy)と明確に区別されています。日本語でも、他の園芸用ケシ属植物と区別するため、特に阿片ケシ(アヘンケシ)と呼ぶことがあります。芥子という表記は本来カラシナを指す言葉で、ケシの種子とカラシナの種子がよく似ていることから、室町時代中期に誤用されて定着したものであるとされています。日本ではオピューム・ポピー(Opium poppy)などオピューム(Opium)産生植物はアヘン法で栽培が原則禁止されている種に指定されており、厚生労働大臣の許可無しの栽培は許されません。オピューム(Opium)は麻薬の阿片(アヘン)の意味。 ケシは地中海地方または東ヨーロッパ原産といわれていますが、野生のものはありません。栽培植物としての歴史は古く、紀元前5000年頃のスイスの遺跡からケシの種子が発見されています(どのように利用されていたかは不明)。四大文明が興った頃にはすでに薬草として栽培されていたとされ、シュメールの楔形文字板にもケシの栽培記録が有。ケシの薬用利用はそこからエジプトを経てギリシャに伝わったと考えられ、ローマ帝国を経てヨーロッパ全土に広まりました。その間に帝国の退廃で利用法も麻薬用へと変っていき、大航海時代を経てアヘン原料として世界各地に広まりました。特にイギリスは植民地であったインドでケシの大々的な栽培を行い、生産されたアヘンを中国(当時は清)へ輸出して莫大な利益をあげ、阿片戦争(First Opium War 1839-1842)が起こりました。同様に日本も戦前朝鮮や満洲の一部(熱河省(現:河北省、遼寧省、内モンゴル自治区の一部)でケシ栽培を奨励し、第2次大戦(1939-1945)中は満洲国、蒙古聯合自治政府、南京国民政府などで本種の大規模栽培を行い、生成されたアヘンに高額の税をかけて戦費を調達。その半世紀前の台湾で、日本による統治開始後40年をかけ、アヘン栽培を租税対象として段階的に税金を引き上げることで、最終的にアヘン栽培を消滅させました。その過程でアヘンの生産と販売を台湾総督府の専売制として独占、莫大な利益を得て、中国戦線における戦費調達としたといわれています。 現在は、国際条約下でアヘンの輸出可能な国はインド、中国、日本、北朝鮮の4ヵ国に限定されるも、現在も輸出を継続しているのはインドのみであるため、国際条約下においてはインドが本種の最大の栽培地となっています。 この他、国際的に紛争が起きている地域で、住民が手っ取り早く現金収入を得るために国際条約を無視してケシを栽培するケースが多く、このケースにおいて、20世紀に非常に有名だったのが、いわゆる黄金の三角地帯(ゴールデントライアングル)としても知られるミャンマー・タイ・ラオスの国境にまたがる地域でしたが、2002年以降は同地域での紛争が沈静化。ようやく同地の支配権を確保できた政府によって他の換金作物への転作が奨励されるようになったため、栽培は低調化。21世紀に入ってから条約無視の不法ケシ最大生産国はアフガニスタンで、2005年時点で、全世界生産量の87%が同国産となっており、タリバンなど同国反政府組織の重要な資金源となっているといわれています。 ケシの果実(ケシ坊主)に傷をつけて樹脂を採取します。草丈は1-2m程度。葉の形は長楕円〜長卵形で、上の葉ほど小さい。 参考:〜
・リメンブランス・デー:〜 11月11日〜ポピーデー(第一次大戦追悼記念日) Remembrance Day (Poppy Day or Armistice Day) 1918/11/11に第一次世界大戦が講和したことから、ヨーロッパでは追悼記念式典が行われており、ヒナゲシは主にイギリス連邦の国々で戦没者の象徴とされています。それは、カナダの詩人で従軍したジョン・マクレー中佐(Lieutenant Colonel John Alexander McCrae 1872-1918)の詩「フランダースの野に(In Flanders Fields)」に因んでいます。 参考HP:〜 ・ケシの花、(写真) ・ケシの実、(写真)
44才で第1次大戦(World War I、1914/7/28-1918/11/11)が勃発すると大学を休職、志願して、YWCA海外派兵ニューヨーク訓練学校本部(New York-based training headquarters)で働きました。カナダ人ジョン・マクレー中佐(John McCrae 1872-1918)が最前線をテーマにした「フランダースの野に(In Flanders Fields)」という詩を発表したのに感動して、1918/11月に「信仰を捨てないで!(We Shall Keep the Faith)」を発刊し、マクレー詩の冒頭に謳われているレッド・ポピー(In Flanders fields the poppies blow / Between the crosses row on row)を戦時中身につけると誓いました。 戦争が終わるとジョージア大学に戻り、傷痍軍人(disabled servicemen)クラスで教授しました。傷痍軍人への財政・職業援助の必要性を痛感し、レッド・ポピーの造花「赤いケシの花(silk poppies)」を販売して第1次大戦戦没者ポピー基金を設立しました。その努力はレッド・ポピーが、1921年にアメリカ予備役軍(ALA:American Legion Auxiliary)で、戦没者の象徴(symbol of remembranc)に採用されて報われました。こうして彼女の人道主義努力がヒナゲシ女子(Poppy Lady)として知られるようになりました。1948年にアメリカ郵政省は、彼女の没後4年でその努力に報いて郵便切手を発行しました。1969年にジョージア州道路公団(Georgia General Assembly)がハイウェイ78号線(U.S. Highway 78)のルート78(U.S. Route 78)にモイラ・ミカエル・ハイウェイ(Moina Michael Highway)と名付けて、彼女の偉業を称えました。 ・詩「信仰を捨てないで!」”We Shall Keep the Faith”の全文:〜 Oh! you who sleep in Flanders Fields, Sleep sweet - to rise anew! We caught the torch you threw And holding high, we keep the Faith With All who died. We cherish, too, the poppy red That grows on fields where valor led; It seems to signal to the skies That blood of heroes never dies, But lends a lustre to the red Of the flower that blooms above the dead In Flanders Fields. And now the Torch and Poppy Red We wear in honor of our dead. Fear not that ye have died for naught; We'll teach the lesson that ye wrought In Flanders Fields. In Flanders Fields we fought 参考HP:〜 ・ルート78の場所地図 ・ハイウェイ78号線の地図 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 12/4/11、12/5/1 |