(11)コロンブスのそのごの記の(二) ころんぶすのそのごのきの2 | C・MENU | もどる | つづく |
|
|
←コロンブスの全4回の 探検航海地図 ←アンティグア・バーヌダ 1992 発行 |
コロンブスは、アジアの「黄金の国(おうごんのくに)」や「香料(こうりょう)」をさがしに、 さらに、そのご2回の探検航海(たんけんこうかい)に、スペインから出帆(しゅっぱん)しました。 第3回(だい3かい)探検航海=1498/5/31〜1500/10/25 |
・コロンブスの第3回めの探検航海 |
|
←コロンブスの第3回めの航海地図 1498/05/31に6隻で287人がサンルカル港を出帆、 7/30トリニダード島につき、7/31ヴェネズエラのパリア湾につく 8/19イスパニョーラ島の新しい町サント・ドミンゴにつく、 1500/10/01に逮捕されてサント・ドミンゴ市を出帆、 1500/10/25にカディス港にかえる。 ←ジャマイカ 1992 発行 |
|
|
←コロンブスとグレナダ島の地図 グレナダ 1992 コロンブス新大陸発見500年記念発行 コロンブスは第3回めの探検航海の1498年にグレナダ島を発見して、the alias Conception Island となづけました。 グレナダ1974独立記念発行 グレナダの郡別地図→ |
|
|
←アジアの「黄金の国はあっちのほうだ!」と、 コロンブスは、さらに探検航海をつづけました。 ところが、第3回めの探検航海(たんけんこうかい)のさいごには、コロンブスは、”ねたみ”と”うらぎり”で、「金銀財宝(きんぎんざいほう)をひとりじめにしている」と国王につげぐちされ、イスパニョーラ島で、あたらしい総督にたいほされてスペインにつれてゆかれました。 ←ギニア 1992 コロンブス新大陸発見500年記念発行 |
第3回めの航海は、1498/2/6に2隻が救援物資をつんでセヴィリア港から、さきに出帆しました。5/31にはコロンブスが6隻で287人をひきいてサンルカル・デ・パラメタ港からカナリア諸島へむかって出帆しました。コロンブスはカナリア諸島で3隻をイスパニョーラ島へ救援のために、ちょっこうさせました。6/19にゴメラ島を出帆し、さらに南下してヴェルデ岬諸島につきました。7/4にヴェルデ岬諸島を出帆し、北緯5度あたりまで南下(なんか)して、そのあとは西へとすすみました。グレナダ島を見て、the alias Conception Island となづけて、7/30にトリニダード(三位一体 さんみいったい、といういみ)となづけた島につき、げんざいのベネズエラについたわけです。トリニダード島の南をまわって、よくじつパリア湾にはいったコロンブスは、はじめてアメリカ大陸についたのでした。このまわりをかこまれたパリア湾にはオリノコ川が流れこんでいて、コロンブスには湾の水が淡水(たんすい)のように思われました。そしてこれだけの量(りょう)の水をはこんでくる川があるということは、大きな大陸があるはずだとかんがえました。また住民と交易するうちに、「金と真珠」がとれることがわかりました。8/13にはマルガリータ島につきました。 1498/8/31にコロンブスは、イスパニョーラ島で1496/6/11に弟のバルトロメ(1461 - 1515)がつくっていた新しい町”サント・ドミンゴ”につきました。ついてみると、コロンブスが信頼(しんらい)して大法官(だいほうかん)ににんめいしていたフランシスコ・ロルダンが反乱をおこしていました。イスパニョーラ島についたコロンブスはロルダンとはなしあいをくりかえしました。そして、帰国を希望する15人を速やかに帰国させること、反乱に加わり島に残る人たちには給料に代えて土地と住居を与えること、今回の反乱はなかったことにすること、ロルダンを終身大法官に任命することになりましたので、島には王室から給料を受け取る人々と、新たに土地を持ちインディオを労働力として自活していく人々が暮らすことになりました。 1499年3月コロンブスの手紙でエスパニョーラ島での反乱を知ったスペイン国王は、フランシスコ・デ・ボバディリャをあたらしい判事・総督(はんじ・そうとく)としてイスパニョーラ島へゆかせ、反乱をおさめることにしました。ボバディリャがエスパニョーラ島についたのは1500/8/23でした。そのとき、コロンブスは島の奥地(おくち)のベガ・レアルにいっていました。バルトロメとロルダンはハラグアでインディオ反乱者とたたかっていました。ボバディリャをでむかえたのは、末弟のディエゴでした。 ボバディリャは、スペイン国王からの「給料の支払い命令書」をみせて、「大減税(だいげんぜい)」を約束しました。そして、自分(じぶん)にしたがう人たちには「土地をわけあたえる」といいました。 9/7にボバディリャといっしょにきていた、フランシスコ会(かい)の修道士(しゅうどうし)と王室財務官(おうしつざいむかん)が、コロンブスのところに派遣(はけん)され、5/26のひづけの国王からのてがみをとどけました。ディエゴはすでに逮捕(たいほ)され、サント・ドミンゴにもどってきたコロンブスは、すぐに逮捕されて砦にとらわれました。コロンブスの手紙でもどってきたバルトロメも逮捕されました。10月はじめの船でスペインに送られるために砦を出たコロンブスは、「処刑(しょけい)を覚悟(かくご)していた」とつたえられています。 コロンブス3兄弟は「鉄の鎖(てつのくさり)”につながれて、1500/10/25にカディスにつきました。コロンブスはフアナ・デ・ラ・トーレに手紙をだして、セビリヤの修道院(しゅうどういん)でイサベラ女王の指示(しじ)をまちました。トーレから「コロンブスが鎖につながれて帰国した」ことを知らされた女王は驚きました。女王は使者を派遣して、鎖をとかせました。そして、グラナダにくるように招待(しょうたい)して、2000ドゥカードの”たいきん”を支度金(したくきん)としてとどけました。女王の使者がコロンブスのところについたのが12/12で、指示を待ちこがれていたコロンブスは17日にはグラナダにつきました。コロンブスに会ったイサベラ女王は「こんかいのできごとはボバディリャがかってにしたことです。だからコロンブスにあたえた特権(とっけん)や恩恵(おんけい)は、こんごとも誠実(せいじつ)にまもります」と約束(やくそく)しました。そのとき、イサベラ女王の近習(きんじゅう)をつとめていたコロンブスの2人の息子(むすこ)のディエゴ(1479 - 1526)は21才に、フェルナンド(1488 - 1539)は12才になっていました。 このように、第3回めの航海ではイスパニョーラ島で反乱がおきていたので、それいじょうの探検航海はできませんでした。 |
・コロンブスの第4回めの探検航海につづく
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |
|