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★日 本 | 福沢諭吉 1860・1861・1867 渡米・渡欧・渡米 |
大航海物語★ |
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福沢諭吉 日本 2008/11/7 発行 |
咸臨丸 日本 1977/1/20 発行 |
世界地図 61回列国議会同盟記念 日本 昭和49年 1974/1/1発行 |
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福沢諭吉 日本 1950 発行 |
慶応大学 と 福沢諭吉 日本 1958 発行 |
福澤 諭吉 (ふくざわ ゆきち) 1835年1月10日(天保5年12月12日) 〜 1901年(明治34年2月3日) 福沢諭吉は大坂堂島にある豊前国中津藩蔵屋敷で下級武士(*)の子として生まれました。1才6ヶ月(1836年)のとき父の死去により帰藩し大分県中津で過ごしました。 蘭学を志し19才のとき長崎に遊学、翌年から大坂へ出て緒方洪庵の適塾で学び、後に塾長となりました。万延元年(1860)日米修好通商条約の批准書交換のための使節団に、軍艦奉行・木村喜毅に頼み込んで、その従者という形で参加して渡米しました。その後、文久元年(1861)には遣欧使節団に加わり渡欧しました。また1867年には刀剣を売り払った金を所持して、幕府の軍艦受取委員一行に加わり再度の渡米、その金で原書多数を購入するも旅行中に上司に反抗したとして帰国後一時謹慎処分となり、原書は没収されました。慶応4年(1868)江戸・築地で開いた蘭学塾をこの年の元号にちなんで「慶應義塾」(現在の慶応義塾大学)と改名しました。没収されていた書物も返却されました。福沢は欧米の文化に追いつくため若者たちに洋学を修めさせなければという信念のため、幕府の招きを断り(1864年10月外国奉行翻訳方に召し出されて幕臣となっていますが)、さらに新政府への出仕も断り、無位無官を通しました。そして「西洋事情」「西洋旅案内」「学問のススメ」「文明論之概略」などを次々に公刊し、啓蒙運動の先頭に立ちました。晩年の著作「福翁自伝」は自伝文学の最高傑作といわれています。明治34年(1901)脳溢血のため亡くなりました。享年66才でした。戒名は「大観院独立自尊居士」。「学問のススメ」での「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の言葉は有名ですね。 第1回の渡米は万延元年(1860)の幕府遣米使節団に志願、福沢(25才)は同年1月に日米修好通商条約批准交換に行く新見豊前守の乗った米艦ポーハタン号の護衛役である軍艦咸臨丸(かんりんまる)の軍艦奉行「木村摂津守」の従者として咸臨丸に乗船、1860年1月13日に江戸品川沖をアメリカ合衆国へと出帆しました。この船には通訳方として中浜万次郎(ジョン万次郎)も同乗していました。なお、咸臨丸の艦長は勝海舟でした。1月19日浦賀を発った咸臨丸は37日かかって、同年2月26日にサンフランシスコ港に到着。ヴァレーホ街埠頭に咸臨丸が投錨すると当時の新聞(アルタ・カリフォルニア紙)には、咸臨丸の乗組員について「これまで見たいずれの中国人より知的な風貌」という記事が載りました。1860年4月28日遣米使節団を乗せたアライダ号がフィラデルフィアからカッスルガーデン(バッテリーパーク )前に停泊、このとき使節団一行はメトロポリタンホテルに滞在しました。 福沢はアメリカでの科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったのですが、文化の違いに関しては様々に衝撃を受けました。例えば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民がジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残しています。福沢は「ウェブスター大辞書」の抄略版を購入し、日本人として初めて日本へ持ち帰って研究の助けとしました。”電信”や”ガルバーニのメッキ法工場”などを見学し、木村喜毅に連れられてオランダ医師の家を訪問しました。この時、彼は一家の主人がこまごま働いて、奥さんが座っている光景を目にし、自由で対等な夫婦の在り方にびっくりしました。後に彼は蒸気船を初めて目にしてから、たった7年後に日本人のみの手によって太平洋を横断した、この咸臨丸による航海を日本人が世界に誇るべき名誉であると述べています。 1860年閏3月19日に福沢の乗った咸臨丸はサンフランシスコを日本に向かって出帆し、ハワイ経由で5月5日、浦賀に到着し福沢は帰国しました。8月に福沢はアメリカで購入していた広東語と英語の対訳がついた単語集である「華英通語」の英語によみがなをつけて日本語訳をした「増訂華英通語」を出版。これは福沢が初めて出版した書物。これが縁で福沢は幕府の翻訳方に採用されました。この書の中で福沢は「V」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字を用いています。以後、前者の表記(ヴ)は日本において一般的なものとなりました。また再び鉄砲洲で講義を行いました。しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなく専ら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換しました。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳を行いました。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強を行ったりもしました。この頃にはかなり英語も読めるようになっていましたがまだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようです。帰国後に、福沢達が咸臨丸でアメリカに渡っている間に「桜田門外の変」が起きていた(1860年3月24日)ことを知りました。アメリカに渡った彼らは、驚くべき体験をたくさんしましたが、日本ではまだ作られていなかった”アイスクリーム”という物を食したのでした。1860年福沢によって「カレー」という言葉が福沢の著書「華英通語」で日本に最初に紹介されました。それは中英辞書を翻訳したもので、「curry」は「加兀」と訳されています。 1860年の冬、幕府は竹内下野守を正使とする第1回使節団を欧州各国へ派遣することとなり、福沢もこれに同行することとなりました。その際に幕府から支給された支度金で英書を買い込み、日本へ持ち帰っています。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べました。例えば病院、銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについてです。これら使節団などへの参加経験を通じて、福沢は日本に洋学の普及が必要であることを痛感。帰国後、「西洋事情」(1866年)などの著書を通じて啓蒙活動を開始、一時は幕臣として幕府機構の改革を唱えました。 1861年12月23日、福沢(26才)は幕府の遣欧使節に従ってヨーロッパに派遣されることになり、文久遣欧使節団の一員としてイギリスの軍艦オーデン号に乗船して品川を出帆しました。一行は長崎、香港、シンガポール、インド洋、紅海、地中海を経てマルセイユに入港、約半年に渡ってフランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの6ヵ国を見聞し国情を視察。福沢は原書購入に努め、ヨーロッパに渡った際、目にした最新技術に驚き、産業技術の発達の裏に「特許」という制度があることに気がつきました。 ・パリ:一行は1862年4月7日、マルセイユ、リヨンを経て、パリ・リヨン駅に到着。ホテル・ルーブルを宿舎として、4月29日まで約3週間滞在し、その後イギリスヘと渡りました。また、帰路にはプロシア(ドイツ)からベルギーを通過して同年9月22日にバリ北駅に到着、グランド・ホテルに宿泊し、10月5日まで滞在しました。その間、福沢は病院・植物園・学校・寺院などさまざまな場所を見学、幾つかの記録を残しています。パリはリヨン駅、北駅、フランス学士院、植物園、国立図書館、マドレーヌ寺院、オペラ座をはじめ、使節団が訪れた当時の建物の多くが現存する街です。福沢が「西航手帳」を購入した地でもあります。 ・ロンドン:一行は、ロンドン万国博を見学し、ロンドンの議会を見学しました。議会では、自由党と保守党が喧嘩のように口論をしたのに、食堂ではその2人が仲良く食事をしていました。福沢は自分の意見が自由に言える国や人をうらやましく感じました。福沢は、この時のヨーロッパ旅行を「西洋事情」として出版し、日本に西洋文化を紹介しました。 ・ロッテルダム:イギリス訪間を終えた福沢ら一行は、1862年6月14日にオランダのロッテルダムに船で到着しました。港には、日本人の使節団を一目見ようと多くの群集が集まっていました。第2次世界大戦の戦災によってロッテルダムには当時の面影を伝える建物はほとんど残っていませんが、唯一戦禍をまぬかれた市庁舎や、使節団一行が上陸したといわれる場所は今日でも訪れることができます。 ・ハーグ:使節団一行はロッテルダムの次に汽車でハーグヘ向かい、ホテル・ベルビューに宿泊。オランダ滞在中、福沢たちはこの街を拠点としてアムステルダム、ライデンなどを見学しました。現在ホテル・ベルビューは別の建物に変わってしまっていますが、旧ハーグ駅は当時の外観のまま現存しています。なお、ライデンには幕末に来日したシーボルトをはじめ、日本と関係の深いライデン大学があります。福沢はこの時に西洋社会の仕組みを詳しくメモし、この記録が後の「西洋事情」初編(1866年刊行)となりました。 ・アムステルダムでは,福沢たちは駅からホテルまで馬車を利用。彼らが訪れた植物園、教会などの建物が当時のまま残っています。福沢は帰国後、オランダ訪問について「各国巡回中、待遇の最もこまやかなるはオランダの右にいずるものはない。これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。ことに私をはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったようなわけで自然に居心地がいい」と「福翁自伝」の中で述懐しています。 1862(文久2)年12月10日に、福沢ら一行は 品川→長崎→香港→シンガポール→インド洋→紅海 →スエズ運河→地中海→マルセイユ →パリ→ロンドン→ロッテルダム→ハーグ→アムステルダム →ベルリン→ペテルブルク→ベルリン→パリ →リスボン→大西洋→ジブラルタル海峡→地中海→スエズ運河→紅海 →インド洋→シンガポール→香港→品川 を経由して欧州へ行き、そして帰国しました。 福沢の第2回の渡米は、1867(慶應3)年1月23日(32才)に幕府の軍艦”富士山(ふじやま)丸”の受取委員の随員として、福沢は刀剣を売り払い、2度目のアメリカ渡航を果たしました。このときは、最初の渡米よりも長く滞在してアメリカ東部諸州を中心にさまざまな都市を見てまわりました。 ・ニューヨークに着いたのは3月19日の夕方。福沢はニューヨーク滞在中にウェーランド経済書、クワッケンボス窮理書、歴史書、地理、法律、数学などに関する多量の書物 を購入し日本に持ち帰りました。ニューヨークに着いた福沢らはニューヨーク滞在中、プリンス・ストリートとの交差点に面するメトロポリタンホテルに宿泊しました。福沢はアップルトン書店で茶箱大の箱、約12箱分といわれる書籍を購入しました。アップルトン書店は新社屋に移った直後の1867年2月に火災で消失。ウォールストリート周辺の運上所(ニューヨーク税関)は1899年に「First National City Bank」によって買い取られ、現在は同銀行の建物となっています。ニューヨークの税関は1863年にフェデラル・ホール(現在は連邦政府の創立時代を記念する博物館)からここに移りました。その後1907年に「カスタム・ハウス」へ移転。 ・フィラデルフィア:何処に立ち寄ったのかな? 後日談として馬場辰猪の墓所(ウッドランド共同墓地)が有。高知県出身で自由民権運動の士、慶應3(1967)年入塾、明治19(1886)年に渡米、明21(1888)年11月1日ペンシルベニア大学病院にて死去。 ・サンフランシスコ・ゴーデンゲイト付近;咸臨丸入港記念碑 万延元(1860)年に批准された日米修好通商100年目を記念して、昭和35年(1960)年サンフランシスコ市の姉妹都市である大阪市が「リンカーン・パーク」の中に建てた記念碑 。 ・モンゴメリー街;ショウ写真館跡 3月29日〜閏3月2日にかけてインターナショナルホテルに滞在していた間に利用。同館の娘ドーラと撮った写真は有名。 ・コルマ;咸臨丸3水夫の墓(日本人共同墓地)、3水夫は源之助・富蔵・峰吉の墓。加州日本人慈恵会によってサンフランシスコ市街のローレル・ヒルから現在地に移されました。 ・ヴァレーホ街埠頭は今は無くなりその跡は痕跡をとどめているだけです。 1867(慶應3)年6月27日、福沢ら一行は帰国しました。このとき、同行した上司と事あるごとに衝突し、しかもし船の中の言動(幕府はぶっつぶす以外にない)が理由で、福沢は帰国後に謹慎を命じられアメリカで買った書物は没収されてしまいました。この事によって幕府への信頼が切れ、迎えた明治維新の時には諭吉は倒幕派にも幕府側にもつかず、世間の騒ぎを冷静に見ていました。アメリカから帰国した直後に芝新銭座で開校した慶応義塾(鉄砲洲から移した家塾を改革・この当時はまだ名称は英学塾)を依拠すべき唯一の場として、上野山戦争の際も世の動きとは別にこの先の世界を担う生徒たちに複式簿記を教えていました。「この塾のあらん限り、大日本は世界の文明国である」という自負は、独立自尊の具体的経験の中から生まれたのでした。 1866〜70年(31〜35才)「西洋事情」を刊行、西洋の制度と理念を紹介し偽版も含めて20〜25万部の大ベストセラーとなったと言われています。この時期にはこの他に多くの著作を残しました。 1867年10月福沢は、大政奉還(王政復古)後、謹慎を解除され新政府から出仕を求められるが辞退、以後は平民となり生涯無位無冠を通し塾経営に力を注ぎました。1868(慶応4)年4月、鉄砲洲一帯が外国人居留地に指定され、福沢は新銭座の有馬家中屋敷に移りました。英語塾は年号をとって「慶応義塾」と改称(1868年33才))しました。没収されていた書物も返却されました。大村益次郎らによる上野戦争の際も講義を休まなかったというエピソードを残しています。翌年には出版業にも着手。1872年(37才)「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という「学問のすゝめ」を刊行、偽版も含め300万部を刊行したといわれています。思想家中随一の人気を集めました。この他多くの著作を刊行し啓蒙思想を広めました。 著書〜西洋事情、西洋旅案内、学問のすすめ、福翁自伝、その他多数。 参考HP〜咸臨丸の写真(シスコ停泊)、咸臨丸・乗船者の写真(右端が福沢) 2006/12/15 |
参考:〜(*)福沢諭吉の「禄高と身分」:福沢は自伝で述べているように「足軽よりは数等よろしいけれど、士族中の下級、今でいえばまず判任官の家でしょう」の下士の”中小姓”格でした。禄高は13石二人扶持で、一人扶持は一日五合の支給。赤穂浪士では前原伊助が同じ”中小姓”でした。でも遣米使節と、次に遣欧使節に従って行くうちに外国奉行支配翻訳御用とという幕臣となりますと、禄100俵で勤役中は50俵の足高となり計150俵、約60石取として直参旗本になったと自伝にも書いています。本人の能力と努力も有りましたが、幕府は幕末には人材登用制度で譜代大名の下級武士を採用するほど革新的な面もありました。「門閥制度は親の仇でござる」とまでいった福沢は、以外と門閥の本家、徳川幕府の中に中津藩よりも居心地の良い所を見付たものです。1861(文久元)年、福沢(26才)は、中津藩の上士である土岐太郎八(350石)の娘(お錦)と結婚しました。身分制の社会にあって身分を越えたこの結婚は異例でした。 福沢は現在の一万円札(2004年より発行)の肖像画としても有名ですね。福沢は会計学の基礎となる「複式簿記」を日本に紹介した人物でもあり、「借方貸方」という語は福沢の訳によるものです。日本に近代「保険制度」を紹介したのも福沢でした。福沢は「西洋旅案内」の中で「災難請合の事=インスアランス」という表現を使い、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 |