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★日 本 | 前島 密 1859 函館丸で日本を2周航海 |
大航海物語★ |
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便郵本日 | 日本郵便 | 日本郵便 | 2本マストのスクーナー型帆船 |
1946−47発行 |
1946−48発行 |
昭和65年 1985/4/5 発行 |
前島 密 (まえじま ひそか) 1835(天保6)/1/7〜1920(大正8)/4/27 前島密は越後の高田藩(越後国中頸城郡津有村、現・新潟県上越市下池部)の農家で上野助右衛門の次男として生まれ、房五郎と名づけられました。その年の夏に父が病没して母に育てられました。10才で独り立ちして、高田藩の儒学者の倉石典太の私塾に入塾しました。12才でオランダ医学を志し一人で江戸に旅立ち、弘化4(1847)年9月、江戸に着くと苦学し、政治・兵法・西洋の事情などの本を書き写す筆耕の仕事を請け負って生活し、のちの仕事に大いに役立つことになりました。 前島密は18才で黒船ショックをうけました。嘉永6(1853)年、アメリカ使節ペリー提督が、蒸気船の軍艦4隻で浦賀 (神奈川県)に来航。房五郎(密)はこの様子をつぶさに見ようと、久里浜でペリーと会見する接見役の井戸石見守(いわみのかみ)の従者となり浦賀に随行。軍艦や海軍の軍人の行動が立派なことに驚き、国防を考察し建白書を書くため、全国の砲台や港湾を見てまわる旅に出ました。19才で江戸を立って越後に行き、母と兄に別れを告げるため家に立ち寄り、北陸道、山陰道を経て、下関を通り、舟で小倉に到り、九州を一周。さらに四国をめぐり、紀州、伊勢から東海道をへて、道中の主な港湾はほとんど見学して江戸に戻りました。20才で、血気にかられての港湾見学は、学問の伴わない実のない行動であったと気付き、今後は勉強し実力をつけて行動しなければいけないと自分を戒めました。後に外国奉行となる岩瀬忠震(いわせただなり)から「これからの志士はオランダ語ではなく英語を学ぶべきである」と諭され、英語を学ぼうとしたが江戸には教師が見当たらず、下曽根(しもそね)金三郎に兵法・砲術の教えを受け、設楽弾正(しだらだんしょう)の家臣から数学を学びまsた。 22才で、長崎でオランダ海軍伝習生となり機関学を修めた竹内卯吉郎(たけうちうきちろう)が”観光丸”で江戸に来て、軍艦教授所の教授となったので、安政4(1857)年、房五郎(密)は彼を尋ねて機関学を学び、同教授所の生徒となり実習生として江戸湾の”観光丸”に乗船させてもらいました。横須賀湾に一泊した夜、雪中の甲板上で、竹内卯吉郎から海に囲まれたわが国の将来について教えられ感銘を受け、商船界に目を向けるようになりました。23才で、、函館にいる武田斐三郎(たけだあやさぶろう)が函館の諸術調所で商船業務を教授していると聞き、東北の海岸を旅して函館に向かいました。このとき、巻退蔵(まきたいぞう)と改名しました。函館では安政6(1859)年24才の春に入塾を許され、航海測量と帆船の運転について学び、函館丸で2回の日本周回の航海実習を経験しました。 安政6年、武田船長の箱館丸に乗組み日本沿海の測量に従事しました。その後、回船業者や船員の実務を学び樺太南岸まで航海しました。 函館丸は箱館奉行の命により、続豊治が建造にかかり、安政4年7月に第1船箱館丸の進水式をあげました。これこそ日本人が独創的に西洋型船を建造した最初の帆船で、2本マスト・56トン・全長29mのスクーナー船でした。船長の武田斐三郎(文政10(1827)年〜 明治13(1880)年)は、この船で、安政6年(1859)から万延元年(1860)にかけて、諸術調所の学生を乗せ、産物を積み、日本一周を実行し、途中、宮古の熔鉱炉を見学して帰り、日本最初の実習船ともなりました。なお、続豊治は安政6年には亀田丸、文久元年(1861)には和洋折衷の豊治丸を造りました。参考HP〜函館丸スケッチ その後、回船業者や船員の実務を学び樺太南岸まで航行したが、函館奉行所の向山(むこうやま)栄五郎に従って江戸に帰りました。 26才で、文久3年にロシア艦船事件処理のために対馬へ赴く外国奉行組頭となった向山栄五郎に随行して対馬に行き。その後、長崎でアメリカ人宣教師ウィリアムズやフルベッキから英数学を学ぶが、文久3(1863)年遣欧使節の通訳となった何礼之(がのりゆき)の従者として洋行するチャンスをつかみ江戸に向かいましたが、乗船した福岡藩のコロンビア号が故障し、江戸に到着したのは池田筑後守等遣欧使節一行が出発した後であり、洋行は失敗しました。以降は略=年表を参照。 |
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★日 本 | 前島密・全国均一料金制を創設 明治6年 1873/4/1 |
大航海物語★ 参考資料 |
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前島密の銅像 |
日本郵便 切手の切手 切手の中に日本最初の切手 ”竜切手”を描く |
日本郵便 1950−52発行 |
郵便創始75年記念・昭和21(1946)/12/12発行 | 通常切手 |
前島密、明治6(1873)年4月1日、日本の「全国均一料金」郵便を創始。 皆さんは、年賀状を何枚貰いましたでしょうか? 私は儀礼的なものを除くと、50通ほどを受領しました。 その内、三分の一が電子年賀状です。 年賀状も電子化されてきた、と言いたいんですが、私の場合はすこし、事情が違います。私はインターネットを楽しんでいるので、 新しく、メル友が増えたんです。メル友とは、住所を知らない友、 といえるんじゃないでしょうか。一度も会ったことが無い、遠方の メル友も居るんですよ。メル友も、何年にも渡って続きますと、 関西方面に来たんで、お会いしましょうと言ってくる友もあります。 本当の、”友あり、遠方より来たる”と成るわけです。今後ともに、メル友を増やしたいと思っていますが、筆不精ならぬ、返信せず、はいけませんね。なかなか、返事をくれない人が多い のは残念です。私も、そうならないよう、せいぜい返信しょうと思います。 ところで、小泉首相が選挙で大勝利して、小泉改革で、郵便が民営化 する元年となりましたが、最近の私達は年賀状と暑中見舞いくらいに しか、郵便を使わなくなったんじゃないでしょうか。大抵の用事は ケータイで話せばすみますし、何かを送る時は、宅急便ですよね。 こんなわけで、今や、危急存亡の時を迎えている郵便は、イツから 始められたかご存知でしょうか? 小学生の子供さんが身近に おられるかたは、ご存知かもしれません。というのは、私の子供が 小学4年生の時に、郵便の勉強をしておりました。 今も続いていると思います。 それは、1873年、明治6年4月1日に、時の明治新政府から太政官布告として、日本全国均一料金が開始された時に始ります。それまでの 日本は、六拾余州の国々に分かれていたんですから、ほんとうに大改革だったことでしょうね。これはイギリスで、1840年に近代郵便制度が始め られてから、遅れること33年です。この時に活躍した人物が”まえじま ひそか”と言って、こんな漢字を書きます、”前島 密”。彼は日本の ”郵便の父”といわれています。 ちなみに、世界最初に近代郵便制度を創った人物は、”ローランド・ヒル (1795-1879)”というイギリス人で、その功績により、時のイギリス国王のヴィクトリア女王 から、ナイトの称号を授けられました。それで、サー・ローランド・ヒルと呼ば れています。 日本の郵便の父は現在の新潟県にあった、越後の国の高田藩の農家に生まれたそうですが、19才の時に、例のアメリカ人ペリーの”黒船来航”に出会いました。嘉永6年、1853年のことでした。 それで、日本全国を遊学したそうです。また、函館藩の帆船で日本列島を測量しながら、二度も回ったそうですから、2周したことになりますね。 そして、長崎でアメリカ人宣教師から英語を学びました。英語が話せるように なった彼は、現在の鹿児島県にあった薩摩藩で、薩摩藩士として働きました。 のちに、薩摩藩の大久保利通から、海軍奉行になって、近代海軍を作るようにと頼まれたましたが、それはことわっって、郷里へ帰りました。なぜか というと、兄が亡くなったとの知らせもありましたが、その時の薩摩藩は ”尊皇攘夷”の考えで、外国と戦おうとしていたことに反発してのことでした。彼の考えは戦争ではなく、平和と友好の考えだったからです。薩摩藩は、のちにイギリスの海軍艦隊と、鹿児島湾で戦って負けていますね。それは、彼の考えが正しかったことが証明された戦争でした。郷里に帰った彼は、 自分の考えを、10数通の手紙に書いて、当時の”飛脚”で、薩摩藩まで 送りました。 それは高田藩おかかえの大名飛脚で、越後から江戸の高田藩邸まで送り、そこから高田藩の人が、薩摩藩の江戸藩邸へ送り、さらに薩摩藩お抱えの 大名飛脚で、薩摩の国へと送ったわけだったそうです。ところが、何故か全部 が着かなかったんで、”前島は幕府のスパイだ”として、薩摩に命を狙われる ことになりました。また、当時の町飛脚は、江戸から五街道を中心にして、採算 の合う街道筋にあったんだそうですが、料金は高く、天候が悪いと休むし、体調 が悪いといっては休んでいました。その上、到着の保障は無かったようです。 郷里に帰った彼は、開国政策を採っていた幕府で働いていましたが、維新戦争で敗北しましたのに、英語を話せて、外国事情にも通じていた彼は、新政府に招かれて、水陸の運輸を管轄する、”駅逓し”の長官になりました。そこで彼は、長崎時代に学んだアメリカの郵便制度を取り入れるべく、計画を政府に提案しました。この計画は距離によって料金が増える方式だっのです。 その計画が実現する直前に、彼は鉄道敷設資金の交渉役のために、イギリスへ派遣されました。イギリスで郵便が全国均一料金で、公共サービスとして、 国民の一人一人が”いつでも、どこでも、だれでも”が自由に使用できて、大発展 していることを見聞きして、”目からうろこ”がとれた状態になって、帰国することと成りました。 帰国すると、明治3年に、東京〜京都、大阪間に郵便事業が始められていました。日本の一番切手は、明治4年に発行されました。貨幣の表示は”もん”が使用されていました。この時の料金は距離制が採用されていたそうです。帰国後の彼は、公共サービスとしての郵便事業を改革する話をするため、大蔵省の、”井上馨”、と面談しました。すると、彼が留守中に ”駅逓し”の長官で、飛脚にこだわっていた”浜口梧陵”という人の首が切られて、帰国して2日後に、再び”駅逓し”の長官に任命されました。 明治の 改革は即断即決だったんですねー。 小泉首相は知ってるんかしら? それから、彼は旧勢力の飛脚達の大反対や、新政府の財政難などを改革して、現在の郵便事業の始まりとなる、全国均一料金制度を成功 させました。このかんに、通貨の改革も行われて、新しい”2銭”の切手が 発行され、北海道から、鹿児島までの日本全国に、同じ料金で手紙が 配達されるようになりました。 そして、日本は、明治10年、1877年には、万国郵便連合に加盟して、 世界の国々にも手紙を出せるようになりました。 以上で、年賀状と郵便についての、お話を終わります。 なお、現在の日本の通貨単位である円(えん)は、明治4年5月10日(1871年6月27日)に制定された新貨条例で定められました。(1円=100銭=1000厘)。現在は”円”だけですね。それだけ、諸物価が高騰したんですよね〜ぇ! |
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★日 本 | 前島密・略歴年表 | 大航海物語★ 参考資料 |
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日本郵便 1952−59 発行 |
日本郵便 NIPPON 1967−69発行 |
日本郵便 NIPPON 前島密生誕150年記念 1985/6/5 発行 |
前島 密 (まえじま ひそか) 1835(天保6)/1/7〜1920(大正8)/4/27 |
年/月 | 才 | ーー 略 歴 ーー | |
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1835 | 天保6 | 0 | 生誕。房五郎と名づけられ、8/11に父の上野助右衛門が病没 |
1839 | 天保10 | 4 | 実家のある高田に母と移住、母の裁縫仕事で育てられる |
1842 | 天保13 | 7 | 春に母と糸魚川に移住し、藩医だった叔父の相沢文仲に養われ、医学を志す |
1845 | 弘化2 | 10 | 冬に独り立ちで高田の伯父の伊藤源之丞家に入り、儒学者の倉石典太塾に入塾。のちに下池部の生家(上野家)に移り、7q離れた高田の塾まで歩いて往復 |
1847 | 弘化4 | 12 | 江戸に出て苦学しながら、医学を修め、蘭学・英語を学ぶ |
1853 | 嘉永6 | 18 | 18才で黒船ショック。同年アメリカ使節ペリー提督が蒸気船の軍艦4隻で浦賀に来航。房五郎(密)はこの様子をつぶさに見ようと、久里浜でペリーと会見する接見役の井戸石見守の従者となり浦賀に随行。驚き、国防考察のため、全国の砲台や港湾を見てまわる旅に出発 |
1854 | 嘉永7 | 19 | 江戸から越後に行き、母と兄に別れを告げ、北陸道、山陰道から、下関を通り、舟で小倉に到り、九州を一周。さらに四国をめぐり、紀州、伊勢から東海道をへて、道中の主な港湾はほとんど見学して江戸に戻る |
1855 | 安政2 | 20 | 後に外国奉行となる岩瀬忠震から「これからの志士はオランダ語ではなく英語を学ぶべきである」と諭され、英語を学ぼうとしたが江戸には教師が見当たらず、下曽根(しもそね)金三郎に兵法・砲術の教えを受け、設楽弾正(しだらだんしょう)の家臣から数学を学ぶ |
1857 | 安政4 | 22 | 竹内卯吉郎が”観光丸”で江戸に来て、軍艦教授所の教授となったので、安政4(1857)年、房五郎(密)は彼を尋ねて機関学を学び、同教授所の生徒となり実習生として江戸湾の”観光丸”に乗船した |
1858 | 安政5 | 23 | 航海術を学ぶため函館へ赴く。名を巻退蔵と改める |
1859 | 安政6 | 24 | 武田斐三郎の諸術調所に入り、函館丸で日本周回の航海をする |
1863 | 文久3 | 28 | この年にロシア艦船事件処理のために対馬へ赴く外国奉行組頭となった向山栄五郎に随行して対馬に行く。その後、長崎でアメリカ人宣教師ウィリアムズやフルベッキから英数学を学ぶ |
1866 | 慶応2 | 29 | 江戸に戻った退蔵(密)は、慶応2(1866)年11月10日、江戸城「つつじの間」において、京都見廻組の役にあった前島錠次郎の跡目相続を認められ、幕臣となり前島来助と名乗る。このころ幕臣の清水與一郎の娘の奈何と結婚。無役であったため、近隣の若者に学問の指導を行った。その中に、のちに衆議院議長、逓信大臣となる星亨(ほしとおる)がいた。この年の末、「漢字御廃止之議」を建議 |
1866 | 慶応2 | 31 | 幕臣前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗る。 漢字御廃止之議を将軍徳川慶喜に提出 |
1867 | 慶応3 | 32 | 港湾事務の知識を得たいと考えていた時に、神戸開港のことを知り、新たに兵庫奉行となった柴田日向守に頼んでその一員となる。赴任時に税関傭英人のシイル氏と親しくなり多くを学んだ。神戸では居留地規則を翻訳し、すぐに税関や保税倉庫の事務に習熟するとあたかも長官のように処遇される |
1868 | 慶応4 | 33 | 大政奉還後、徳川家が静岡に移ると。駿河藩の公用人となって旧幕臣の措置、新藩の経営などを行い、徳川慶喜の跡を継いだ幼い家達(いえさと)を助けた。遠州中泉奉行となると、江戸から移住してくる旧幕臣たちのために長屋を建設し、産物を陳列して売らせたり、織物や養蚕を習わせたりしたが、奉行職が廃止となり、藩内の開業方物産掛となる。このころ、名前を前島密と改めた。 |
1868 | 明治1 | 34 | 1868/7に江戸が東京となり、9/8に明治と改元、これより、一世一元となる |
1869 | 明治2 | 34 | 明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕。 |
1870 | 明治3 | 35 | 3月に租税権正、 5月には駅逓権正兼任となり、太政官に郵便制度創設を建議。 郵便制度視察および鉄道建設借款契約締結のためチャイナ号で渡英。 |
1870 〜 1879 |
明治4 〜 明治5 |
35 〜 37 |
イギリスは1840年にローランド・ヒルの改革により、世界にさきがけて近代郵便制度を実施した。この制度は、切手による料金前納と均一料金制によって誰もが低料金で簡単に利用できるものであった。密が渡英した1870年ごろには、郵便はすでに欧米の一般的な公共通信手段となっていた。また、イギリスの郵便局では、郵便だけではなく郵便為替、郵便貯金も取扱い、郵便保険も実施していた。密は公務の合間に郵便局の職員に直接話を聞き、実際にこれらを利用するなどして、郵便局の業務を十分に学んで帰国 |
1871 | 明治4 | 35 | 1871/4/20(旧暦1871/3/1)、郵便の取扱いが開始される(東京〜大阪) |
1871 | 明治4 | 36 〜 37 |
8月に帰国、駅逓頭に任じられ、郵便制度創設に尽力、日本の近代的郵便制度の基礎を確立。密の後任、杉浦譲によって、明治4(1871)年3月1日(新暦4月20日)郵便の取扱いが開始されていた。イギリスで公務のかたわら郵便事業を見聞してきた密は、同年8月に帰国すると自ら希望して駅逓頭となり、先ず郵便規則を整備し、書状だけでなく新聞や雑誌等の取扱いを開始した。翌5年に全国に郵便網を延長し、6年には全国を同じ料金で送達する均一料金制を導入 |
1872 | 明治5 | 37 | 陸海元会社(現、日本通運株式会社)、 郵便報知新聞(現・スポーツ報知)の設立及び刊行に関与 |
1873 | 明治6 | 38 | 全国を同じ料金で送達する、全国均一料金制を導入 |
1875 〜 1880 |
明治8 〜 明治13 |
40 〜 45 |
航海術を学び、周りを海に囲まれたわが国は商船事業を確立させなければならないと、早くから考えていた。明治5年日本帝国郵便蒸気船会社を発足させたが失敗、明治8年には三菱商会(後の郵便汽船三菱会社) を助成して、海運振興政策を進めることとなった。これが今日の日本郵船株式会社の前身である。また、明治13(1880)年、海員の素質の向上とその保護救済などを目的とする日本海員掖済会を発足させ、その後も長くその発展に尽くした |
1877 | 明治10 | 42 | 駅逓局長に任命。第1回内国勧業博覧会審査官長 |
1878 | 明治11 | 43 | 元老院議官を兼任 |
1879 | 明治12 | 44 | 内務省駅逓総監に任じられる |
1881 | 明治14 | 46 | 「明治14年の政変」で辞職し、大隈重信らとともに立憲改進党を創立 |
1886 | 明治19 | 51 | 東京専門学校(現・早稲田大学)校長に就任、また関西鉄道会社社長 |
1888 | 明治21 | 53 | 11月に逓信次官に、1891年(明治24年)3月まで在職。 官営電話交換制度を実施 |
1894 | 明治27 | 59 | 北越鉄道株式会社の社長に就任、北越鉄道(直江津〜新潟)建設を開始 |
1902 | 明治35 | 67 | 男爵 |
1905 | 明治38 | 70 | 貴族院議員に選任 |
1919 | 大正8 | 84 | 神奈川県三浦郡西浦村芦名(現在の横須賀市芦名)の別荘如々山荘にて没 |
・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/8/11 |