Ikuno Silver Mine 807, Ikuno-Ginzan Hyogo Japan.
史跡探訪 生野銀山 生野アルバム
平成26年 2014/4/10(木) 於:兵庫県朝来(あさご)市生野町小野

「生野代官所」

江戸時代の坑道 (アリの巣?)
銀山観光の入口ゲート 坑道入口(トンネル)、出口(赤い橋)
昭和時代の排水坑と坑道 銀山の断面図
古い坑道 トロッコ軌道つき坑道 坑道の支柱
夫婦の先山が鉱脈を手掘りで掘り進む 鉱石の運搬 坑内の見張り番
鉱石の選別 鉱石の選別 鉱山の出口
・生野銀山
生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられ、天文11年(1542)、但馬国守護大名・山名祐豊が石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘を始めました。戦国時代の織田信長豊臣秀吉徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、佐渡金山(越後)、石見銀山(石見)とともに重要な財源としました。江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出。宝永2年(1705)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されました。慶安年間(1648-1652)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716)には生野奉行は生野代官と改称。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増。明治元年(1868)から日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明(1843-1924)を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエ(Jean Francois Coignet、1835-1902)らの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められました。明治22年(1889)から宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となりました。資源減少で鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山(1973(昭和48)/3/22)して1200年の歴史に幕を閉じました。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しました。現在は、テーマパーク「史跡 生野銀山」として(株)シルバー生野が管理・運営中。
17/5/25p37
こちらで
・超豪華客船 ダイヤモンド・プリンセス号
パシフィック・ヴィーナス号
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お楽しみください。

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。
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