切手で綴る 太平洋戦争 物語
第1部 <開 戦>
第1章 真珠湾攻撃
08 <特殊潜航艇>(甲標的)
酒巻少尉艇、ベローズ海岸に漂着
1941
日本時間 12/9 ・・・・・ 現地時間 12/8
オアフ島のベローズ海岸へ漂着した
酒巻少尉乗船の特殊潜航艇”甲標的”


SAKAMAKI MIDGET SUBMARINE BEACHED
ガイアナ 1994 発行
母潜の伊号潜水艦”後部上甲板”に搭載された
特殊潜航艇 ”甲標的”


Japanese Submarines and
Aircraft Leave Truk to atack Pearl Harbor
セントヴィンセントグレナディン 1994 発行

酒巻少尉(酒巻和男、1918(大正7)-1999(平成11)/11/29)の乗船した特殊潜航艇はイ24潜水艦に搭載されて、ハワイ時間12/6深夜オアフ島真珠湾外10マイル(19km)の配備につきました。ところが方位を知るためのジャイロ・コンパスが故障している事がわかりましたが、潜望鏡を使って方向を確かめると、酒巻和夫少尉はイ24潜の艦長に出撃の決心を告げ、稲垣清2等兵曹(稲垣清、1915(大正4)-1941(昭和16)/12/8、二階級特進で海軍兵曹長)と共に翌朝12/7未明(午前4時頃)母潜を離れ夜明けを待つこととなりました。海中での固定器具の解除により、いきなり海上へ放り上げられて、バランスを崩してしまいました。バラストの重りを狭い艇内を移動する事3時間余り、ようやく水平になりました。潜望鏡の偵察で真珠湾外はるかに遠くに居る事がわかり、湾口に向けて航行しましたが、折悪しくイ16潜から出撃した横山艇の潜望鏡が米駆潜艇"コンドル"に発見され、その通報で攻撃中の米駆逐艦"ウォ−ド"に発見されてしまいました。その爆雷攻撃はすざましく横山艇も撃沈されましたが、酒巻艇は辛くも逃れる事が出来ました。しかしそのダメージは大きく、廷内にガスが発生した上、廷内気圧が上がり意識が朦朧とするなか何とか湾内への突入を試みましたが度重なる座礁で、ついに母潜との生還時の予定会合地点”ラナイ島”沖合いへと向いました。真珠湾攻撃の次はシンガポールを攻撃する事になっていたためといわれています。ジャイロコンパスが故障で無いなか、潜望鏡で偵察しながらの航海で目標を見誤り、真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に着きました。出撃から24時間以上も過ぎて、バッテリーも尽き、海岸に漂着してしまいました。そこで自爆炸薬に点火、2人とも夜の海へフンドシ一本で飛び込みました。酒巻少尉は翌朝、意識不明で海岸に打ち上げられているところを米軍に助けられ、捕虜となりました。稲垣兵曹は遺体で収容されました。

酒巻少尉はハワイ時間12/8 04:00出撃、3時間後に特殊潜航艇が水平となり安定し前進するも、米駆逐艦”ウォード”に発見・攻撃され損傷、真珠湾とは反対側のオアフ島北のベローズ海岸に座礁、漂着。12/9朝ベローズ海岸で捕虜となり、フォートシャフト基地へ「日本兵捕虜第1号」として収容されました。翌1942/3初め、米本土サン・フランシスコのテンゼル基地に抑留日本人やドイツ人らと共に移送され、1週間後、ウィスコンシン州マッコイ基地へ移動し一人だけで収容されました。42/5には日本人抑留者と共にテネシー州フォレスト基地へ移動。42/6末にはルイジアナ州リビングストン基地へ。42/6/5のミッドウェイ海戦による日本兵捕虜が11/15に収容されて来ました。ここで初めて捕虜の日本兵と出会いました。43/5/20再びウィスコンシン州マッコイ基地へ日本兵捕虜全員が移動。43/12頃から西南太平洋の海戦が激化して、捕虜の日本兵が増加。2,000人を超えるようになりました。45/6ここを出発、45/7/2テキサス州ケネディ基地へ移動、終戦を迎え、8/14日本敗戦を知らされました、実に捕虜となってから1,134日目の事でした。45/12/8日本兵捕虜と共に日本へ向けて送還となり、46/1浦賀へ到着できました。1945年1月初旬、浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本海軍の服と着替えて、郷里の徳島へ無事に生還しました。

・特殊潜航艇の装備:〜
  (Japanese Midget submarine)
甲標的は、1940(昭和15)年に量産艇1号機が完成(全52隻)。開戦時にはおよそ20隻が完成していました。シドニー襲撃艇はハワイの戦訓から艦首に「防材乗り越え用のソリ」を装着するなどの改良が加えられていました。
甲標的 装備 酒巻少尉乗船の”甲標的”

ガイアナ 1994 発行
全長 23.9m
全没排水量 46tn
全幅 1.85m
電動主機 600馬力
最高水中速度 19kt
水中航続距離 80分/6kt
乗員 2人
魚雷発射菅 45cm×2
九七式酸素魚雷 2本
安全潜航深度 100m

その後、人間魚雷回天なども開発されました:〜
・甲標的丁型の乗員5人小型潜水艦(水中60.2t)、蛟竜(こうりゅう、量産型1945年)
  本土決戦用で、45cm魚雷発射管2基を装備、終戦時には約150隻が完成して、
  各地への配備を完了し、約460隻が建造中なるも、実戦は無。
・乗員2人の潜水艇(水中19.3t、水中10kt)、海龍(水中翼が有、量産型1945年)
  本土決戦で輸送船団への攻撃用で、艇首に爆薬600kgを装備、
  224隻が完成するも、実戦は無。
・乗員1人の回天(かいてん:人間魚雷回天、8.30t、30kt、炸薬:1.55t)
  潜水艦の甲板に4基積んで出撃し、母潜16隻(のべ32回)のうち8隻が撃沈され、
  戦果は撃沈3、大破1、小破4隻でした。

(※)上記のセントヴィンセントグレナディンの切手には”leave Truk”と、トラック基地から真珠湾へ向け出発したと印刷されていますが、日本側の記録では内地の基地からの出発となっておるようです。

こちらで
ホンコン空襲
潜水艦隊の攻撃
マダガスカルの戦い
をお楽しみください。

参考HP〜)
特殊潜航艇の写真(オアフ島ベローズ海岸に漂着した酒巻艇、ハワイ州ワイマナロ)
甲標的の写真(Submarine Force Library and Museum, Connecticut, USA)

参考:〜
米駆逐艦 ワード号の装備:〜就役:1918/7/24、退役:1921/7/21
  (USS Ward, DD-139/APD-16、アメリカ海軍ウィックス級駆逐艦)
  (第二次世界大戦勃発後、1941/1/15に再就役)
  (マンリー級高速輸送艦(APD-16)に改装後、1943/2/6に再就役)
駆逐艦 ウィックスス級58番艦 真珠湾港外で特殊潜航艇を撃沈した
米駆逐艦ワード号


USS Ward sinks
two Midget Submarines

ガンビア 1992/8/3 発行
建造所 カリフォルニア州メアアイランド海軍造船所
全 長 95.81m
全 幅 9.42m
吃 水 3.00m
排水量 基準1,247トン
最大速力 35ノット(駆逐艦)
乗 員 231人
武 装 駆:4インチ砲4門、3インチ砲1門、21インチ魚雷発射管12門
輸:3インチ砲4門、40ミリ単装機関砲2門、20ミリ単装機銃5門、LCR4隻
※1941/12/7に真珠湾港外で帝国の特殊潜航艇を発見・撃沈
※1944/12/7にレイテ島北方オルモック湾にて神風特攻隊の攻撃で沈没

・上記は こちら の文献などを参照させてもらいました。    15/8/6、16/5/15

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