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United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland |
(*)イギリス・メモ
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・脚注・(1〜8) ・1558年:”サン・ホワン・デ・ウルーア島の戦い” 1558年11月、エリザベス1世がイギリス国王として即位した。イギリス商人の西アフリカへの渡航はますます活発になり、さらにアメリカ大陸の存在が大きくクローズアップされるに至ってきた。62〜65年にかけてジョン・ホーキンズの船団がイギリス〜西アフリカ〜カリブ海のスペイン植民地をまわって商品を売り買いして利益をあげた。ただし、彼がこの時やった商売には西アフリカで買った黒人奴隷をスペイン植民地に売り付けるというものも含まれており、これは実はスペイン人以外には禁止されていた。ホーキンズはスペイン当局に目を付けられた。1568年9月、再びカリブ海に現れたホーキンズの船団は嵐のためスペイン領の島”サン・ホワン・デ・ウルーア島”に退避した。そこに、スペインの船団12隻がやってきた。ホーキンズはあくまで平和的に食糧の確保と嵐で傷んだ船の補修のみを望んだが……スペイン側の指揮官はホーキンズを「海賊」と決めつけてこれを攻撃した。イギリス人たちはすぐさま反撃してスペイン船2隻を撃沈したものの、自らも大損害を受け2隻だけで島から逃走した。うち1隻は夜中に黙って姿を消し、ホーキンズの手元に残った小型船1隻は逃走の際に他の船から乗り移ってきた船員たちで定員オーバーになっていた。食糧の不足に苦しんだ船員のうち100人はメキシコの無人海岸で自発的に下船し、残りの連中だけが飢えと病気に苦しみつつ数ヵ月かけてイギリス本国に帰還した。生存者はホーキンズ以下15人だけ、メキシコで降りた連中はインディアンかスペイン人に捕まって殺されるか、運がよくてもガレー船漕ぎの奴隷にされてしまった。この事件が起こったのとちょうど同じ頃(1568年)、スペイン領ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)にて大規模な反乱「オランダ独立戦争」が勃発した。スペイン本国からネーデルランド駐留軍へと莫大な軍資金が運ばれることとなったが、その輸送船がイギリスの港に立ち寄った際、ホーキンズの災難を聞いて「サン・ホワン・デ・ウルーアを忘れるな!」といきり立ったイギリス当局がこれを差し押さえてしまった。この事件は後の英西全面戦争の序幕となるものである。ヘンリ8世の「イギリス国教会」創設以来対立を深めてきた両国はいよいよ武力対決の道へと歩んでいくのであるが、しかしこの時点のイギリス政府はまだスペインと正面きって戦う考えを持っておらず、スペインの方はネーデルランドの反乱鎮圧や同時期にフランスで起こった内乱への介入に手間をとられていた。ただし、イギリス人の船乗りたちはエリザベス1世の黙認や密かな援助のもと、スペイン領への海賊的な襲撃を繰り返した。イギリス・スペイン関係が表向き平和な73年1月、フランシス・ドレイクの一党がパナマ地峡 に上陸、フランス人の海賊やシマロンとともにスペインの銀輸送隊を襲撃した。ドレイクは元々貧乏農家の生まれから身を起こして20歳前後で武装商船の船長となり、「サン・ホワン・デ・ウルーアの戦い」にも参加した男である。その4年後の77年11月、改めて5隻160名の艦隊を率いるドレイクがイギリスのプリマス港を出帆した。この時彼はエリザベス1世から「太平洋に入り、スペイン領ペルーを攻撃せよ」との密命を受けていたという。78年11月〜翌年3月、ドレイク艦隊はスペイン領南アメリカの太平洋沿岸地域への襲撃を繰り返し、特に3月1日には赤道付近で銀を満載した輸送船「カカフェーゴ」を捕捉、砲撃でマストをへし折った後、斬り込み攻撃をかけて40万ペソ相当の銀を奪い取った。ドレイク艦隊はその後太平洋を横断して東南アジアに出、モルッカ諸島で香料を買い付けたりして80年9月に母港プリマスに帰還した。マゼランにつぐ史上2番目の世界一周航海であり、出発以来2年と10ヵ月の間に60万ポンド相当の収獲を得た。当時のイギリス国王の年収が20万ポンドであったというからこれは大変な大略奪行であり、しかも表向きはイギリス・スペイン関係が平和な時期にやってのけたのだから凄まじい話である。ドレイク艦隊への最大の(極秘の)出資者であったエリザベス1世は4700%の配当を受け、財政赤字を残らず解消してしまった。当時、スペインは中南米の植民地から搾り取った金銀を財政にあて、イギリスやフランスはそのスペインの富を半公認の海賊を用いて横取りして国家の財源としていたのである(略奪の海カリブ)。 ・1581年:オランダがスペインから独立 1568年以来、ネーデルランドがスペインの支配に対する反乱を起こしていたことは既に述べたとおりである。ネーデルランドの北部(現オランダ)はプロテスタント、南部(現ベルギー)はカトリックで、スペインもカトリックであることから南部は戦線から脱落してしまうが、北部7州はその後も徹底抗戦を続け、81年には「ネーデルランド連邦共和国」の設立を宣言した。これがオランダの始まりである。イギリスのエリザベス1世個人としては、オランダの反乱には興味はなかった(イギリス史2)。彼女はただスペインが必要以上に強大になることを警戒するのみで、基本的にケチな性格からして正規の軍事介入などもっての他であった。しかし前述の南ネーデルランド脱落に加え、独立宣言3年後の84年にはオランダの指導者オラニエ公が暗殺されるとさすがにスペインとの対決を想定しない訳にはいかなくなってきた。もしオランダが敗れれば、そこから狭い海を隔てたイギリスが直接スペインの脅威を受けることになるのである。去る80年、スペイン王フェリペ2世はポルトガル王位を兼任してその領土と植民地を手にいれていた。フェリペ2世の絶頂期である。イギリス海賊の跳梁は既に我慢の限界を越えており、そろそろ頃合とみたスペインはエリザベス暗殺をはかった(83年)上に85年春にはスペイン領内のイギリス船を抑留した。イギリスからは非公式の報復艦隊が次々と出撃した。1585年8月、正式にイギリス・オランダ同盟が締結されました。年末にはオランダに派遣されたイギリス軍がスペイン軍と交戦した。ここにイギリスとスペインは正規の戦争状態に突入した。”アルマダの海戦”へ。 ・1588年アルマダの海戦 フェリペ2世はイギリス本土上陸作戦を認可した。まず「スペイン艦隊によるイギリス本土攻撃案」については71年の「レパント沖の海戦」で活躍したスペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯からの上申があり、これにオランダ方面のスペイン軍を指揮するパルマ公から提出された「陸軍によるイギリス本土上陸作戦計画」をミックスして、輸送船による陸軍の上陸作戦を本国艦隊によって援護しようというのである。スペインが準備を進めていた87年4月末、ドレイク艦隊23隻が大西洋沿岸のカディス港のスペイン艦隊を奇襲攻撃、スペインのガレー船33隻を撃沈した。ドレイク曰く「カディスでスペイン王のひげを焼いた」のである。これは実に大きな出来事であった。いうまでもなくガレー船は舷側から突き出した何十本ものオールを漕いで動かす乗り物で、夏の地中海のような穏やかな海では実に機動的な操船が可能である。ガレー船を用いての戦闘は古代ギリシアの時代から基本的に変わっていない。ガレー船は船首部に「衝角」という特別に頑丈に造られた部位を持ち、これを敵艦の横っ腹に激突させて大穴をあけるか、または敵艦に漕ぎ寄せて斬り込み攻撃をかけるという戦法である。ただしガレー船は巨大なオールを漕ぐ必要上、平底かつ舷側が低いせいで大西洋の荒波には向いていなかった。その点、ドレイク艦隊の船はどれも単なる帆船で、船底が深く舷側が高いおかげで大洋での操船に向いており。カディスの海戦でもモタモタしているガレー船に遠距離から大砲を撃ち込んで大打撃を与えたのである。 結果、スペインは艦隊の主力をガレー船から帆船に切り替えた。ポルトガル(今はスペインと同君連合)が持っていた大型帆船や南イタリアのナポリ(ここもスペイン領)の艦隊も動員された。1588年2月、スペイン艦隊司令長官サンタ・クルーズ侯が亡くなった。後任の司令長官に任じられたシドニア公は海についてはまったくの素人であり、本人も断ろうとしたがフェリペ2世は何故か頑として聞き入れようとしなかった。7月12日、いよいよスペイン「無敵艦隊(アルマダ)」が出撃した。1000トン以上の艦7隻、800トン以上の艦17隻、500トン以上の艦32隻、それ以下の艦19隻を主力とし、その他の輸送船等まであわせると総勢130隻に大砲2430門、乗組員2万4000と陸兵6000人という大部隊である。さらに南ネーデルランドにはパルマ公率いる歩兵3万・騎兵4000が輸送船を揃えてイギリス上陸の機会をまっていた。艦隊に対するフェリペ2世の命令はあくまで陸軍のイギリス上陸援護を第一とするものであり、イギリス艦隊との戦闘は二の次とされていた。 対するイギリス海軍の全戦力は、1000トン以上の艦2隻、800トン以上の艦3隻、500トン以上の艦24隻、その他の小型艦153隻であった。当時のイギリス海軍はよく「海賊の寄せ集め」と評されるが、彼等は実際には普通の船乗り商人で、副業(本業より儲かる)として、イギリス王の黙認と密かな出資のもとにスペイン植民地やそこから本国に向う「財宝船」を襲っていたことから「海賊」と言われたのである。。 7月19日、スペイン艦隊がイギリス本土を視界におさめた。南ネーデルランドにあるパルマ公の輸送船団はイギリスのシーモア艦隊とオランダのローゼンタール艦隊の封鎖にあって身動きがとれなかった。21日午前9時、プリマス港からイギリスの主力艦隊が出撃した。司令長官はハワード元帥、ドレイク、プロフィッシャー等の猛将を左右に従えている。こうして、世界戦史に名高い英西艦隊の戦い、世にいう「アルマダ海戦」はイギリス艦隊出撃当日の21日からさっそく始まった。南ネーデルランドを目指して英仏海峡を東に進むスペイン艦隊と、それを阻むイギリス艦隊の戦闘が約1週間に渡って続くことになる。海戦の商才は、こちら。 この「アルマダ海戦」以降、スペインは次第に落ち目になっていった。1589年、フランスでプロテスタント派のアンリ4世が即位して内乱(62年から続いていた「ユグノー戦争」)をほぼ収拾し、96年にはイギリス・フランス・オランダの3国が対スペインの同盟を結成した。スペインは相も変わらず中南米の植民地から巨万の富を吸い上げつづけているとはいえ、その多くは本国に運ぶ途中でイギリス海賊に強奪され、オランダ独立戦争の鎮圧や無敵艦隊の整備、フランス内乱への介入、ポルトガル王位継承工作等々々に用いた予算は収入をはるかに上回っていた。増税によって商工業を沈滞させ、国内の非カトリック教徒を徹底的に弾圧したことは労働力の不足を招いた。フェリペ2世は98年に亡くなり、跡を継いだフェリペ3世、次の4世は全くの凡人、経済も活力を失っていた。1609年、財政難に耐えられなくなったスペインはオランダと休戦し、国王がかわったイギリスとも講和した。以後、世界貿易・植民地獲得の主役はプロテスタント的勤勉さを持つオランダ・イギリス、そして(この国ではプロテスタントは少数だが)フランスにとってかわられていくのである。 ・航海条令と英蘭戦争 1651年、イギリス議会に「航海条令」が提出された。「イギリス及びその植民地の産品はイギリス船でなければ輸出出来ない」「イギリスに輸入する貨物はイギリスまたはその産出国の船でなければ入港を許さない」「イギリス近海で取れる魚類及びその製造品はイギリス船でなければ輸入を許さない」「この規定に反する船は貨物とともに没収する」……。要するに、オランダの中継貿易をイギリスから全面的に締め出し、かわりにイギリス海運業をバックアップしようとの目論みである。軍の指導者クロムウェルは同じプロテスタント国であるオランダと事を構えるのを嫌ったが、この条令は彼の留守中に可決されてしまった。その史的背景はともかく、「航海条令」なるものを具体的にどのような勢力がどのような具体的な見通しのもとに推進したのかは現在でも謎のままである。ともあれ、イギリス官憲はたちまち200隻のオランダ商船を拿捕し、さらに英仏海峡を航行する他国の軍艦にイギリス艦への敬礼を義務付けた。イギリス側ではピューリタン革命の際に海軍がおおむねピューリタン側に立っていたことから共和政府は海軍増強に力を入れていた。それまで戦闘用の船といえば商船に重武装を施していたものを、戦闘のためだけに建造した専用の軍艦が登場してくる時代である。 イギリス・オランダ戦争、 (1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年) 17世紀後半、イギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で3次(1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年)にわたって行われた戦争。これによりイギリスの海上支配が確立し、オランダは衰退。 17世紀後半、イギリスの航海条令を不満とするオランダとの間で3次(1652年〜1654年、1665年〜1667年、1672年〜1674年)にわたって行われた戦争。これによりイギリスの海上支配が確立し、オランダは衰退。 1652年5月13日、両国の小艦隊が衝突した。オランダ艦隊がイギリス側に敬礼しなかったためである。16日、トロンプ提督率いるオランダ艦隊42隻がイギリスのドーヴァー港に入泊した。これは天候の変化によるもので、別に戦争をするつもりはなかった。しかしオランダ艦隊はイギリス側からの敬礼要求を拒否し、一挙に緊張が高まった。イギリス側は北のダウンズ港から8隻、南のライス港から15隻を出撃させてオランダ艦隊に圧力を加えることにした。19日、オランダ艦隊がドーヴァー港を出港し、洋上でイギリス艦隊と相対した。イギリス艦隊は3回空砲を発して敬礼を促すもオランダ艦隊はこれに応じず、逆に実弾の一斉射撃をお見舞いした。「ドーヴァー沖の海戦」である。戦闘は全くの乱戦で、大した犠牲もださないまま双方撤収した。ともあれかくして「英蘭戦争」の火蓋は切って落された。6月12日イギリスのアイスキー艦隊が英仏海峡を航行中のオランダ商船隊を攻撃して6隻を拿捕した。北海ではブレーク艦隊がオランダ漁船100隻を拿捕し艦艇12隻を撃沈もしくは拿捕した。 ・1675年ベーコンの反乱 ヴァージニア植民地では、沿岸部の大半は大プランテーションによってほほ独占され、年季の明けた貧しい白人はそれに押し出される形で西部のインディアンの土地へと入り込んでいた。ヴァージニアの沿岸部は川や湾が入組んでおり、大プランテーションで生産された煙草が各農園ごとの船着き場から売りに出されることは既に述べた通りだが、船が遡れない西部の上流地帯「ピードモンド」は小規模農民を主流とする世界が構築されつつあったのである。註1 ヴァージニア東部はプランテーション中心の世界、西部は小規模農民の世界、という構図は19世紀まで持ち越される。「南北戦争」に際して東部が南軍の中心の1つとなったのに対し、西部はヴァージニア州から分離して北軍に参加し、「ウエストヴァージニア州」を組織するのである。 とにかく自分の土地が欲しい年期明けの奉公人や西部のプランターにとって、インディアンは「害虫」であった。総督バークレー卿はインディアンの土地を保護して毛皮取引を進めようとし、さらに、王政復古の時に選出された植民地議会の議員が自分に忠実だったことから延々と会期を延長し、14年間の長きに渡って選挙をしなかった。 1675年夏、3人の植民者がインディアンに殺害され、ヴァージニアとメリーランドから民兵が出動した。ヴァージニア隊の隊長は前に出てきたジョン・ワシントン中佐、メリーランド隊の隊長はトマス・トルーマン少佐である。後者は合衆国第33代大統領……とは残念(?)ながら関係ない。とにかく彼等はインディアンの代表と話し合いを持ち……誰の責任かは不明だが……殺してしまった。ここにヴァージニア植民地とインディアンとの大規模な戦争が出来した。 総督バークレー(70才)は積極的な攻撃を控え、防御に徹しようとした。このことが西部のプランターや小さな農園をつくっていた年期明けの元奉公人を怒らせた。「総督は自分たちをインディアンから守ってくれない」「それはインディアンとの毛皮取引の方が大事だからだ」。2年前に移民してきたばかりのプランター(ということは西部に農園を持つ)であるナサニエル・ベーコン(28才、フランシス・ベーコンの従兄弟)という人物が群集に担がれ、勝手にインディアン討伐軍を組織して大勢のインディアンを虐殺した。総督バークレー卿は最初は怒ったがベーコンの勢いを見てその行動を事後承諾し、正式に対インディアンの宣戦布告を行った。新しい議会も招集された。しかし結局総督には本気でインディアンと戦う考えはなかった。「裏切られた!」と叫んだベーコンは同調者400人を率いてジェイムズタウンに進撃、町を焼き払って総督を追い出した。ベーコンは総督を本国で裁判にかけようと考え、各地で総督派の部隊との戦いを続けたが、76年10月に赤痢に罹って死亡した。その軍隊は四散した。総督バークレーはベーコン派の幹部23人を処刑した。本国から艦隊と調査委員会が到着してバークレーを本国に召還した。バークレーは本国についてすぐに病死した。国王チャールズ2世はむしろベーコン派に同情を示し、「おいぼれの馬鹿めが、奴は朕の父を殺した者の処刑よりももっと多くの人を殺してしまった」と呻いたという。今回の反乱ではベーコン側に年季明け奉公人が多く参加していたため、プランターたちは年季が明ければ自分たちに対抗してくる白人の年季契約奉公人よりも、基本的に死ぬまでその身柄を拘束出来る黒人奴隷の獲得の方が大局的に都合がよいと考えるに至ったといわれている。 註4 「朕の父」とは「ピューリタン革命」で殺されたチャールズ1世のこと。「父を殺した者の処刑」とは王政復古の際のピューリタンへの報復を指す。 1675年フィリップ王戦争 ところで、「ベーコンの反乱」の直接の契機となったのはインディアンとの土地をめぐる抗争だが、全く同じことは同時期のニューイングランドでも起こっていた。1675年6月25日、これまで土地を侵食され続けてきたワンパノアグ族の首長メタコム〜イギリス人は「フィリップ王」と呼んだ〜がプリマス植民地を攻撃し、前者はニプマック族やナラガンセット族を、後者はマサチューセッツ植民地とコネティカット植民地を引き込んでの大戦争を開始した。世にいう「フィリップ王戦争」である。 註1 先に攻撃したのは白人の方だという説もある。 おそらく宗教上の事情(ピューリタンが苦しむのは国教会としては好都合)から本国は援軍を派遣せず(ヴァージニアのベーコンの反乱の時にはちゃんと艦隊を送っている。到着したのは反乱鎮圧後だが)、ニューヨーク総督はこの機会にニューイングランドの一部を削りとろうとさえした。インディアン軍は当時90存在したタウンのうち12を破壊し40を攻撃した。ニューイングランド始まって以来の危機である。 註2 アメリカ独立戦争の時もニューイングランドではそれほどの激戦はなかった。南北戦争の戦火はここには及んでいない。 ただし、インディアン側の足並みも揃っていなかった。ピークォット族とモヒカン族は植民地の味方につき、そもそもフィリップ王のインディアン軍は奇襲攻撃でタウンを破壊するという以外にこれといった作戦や遠大な戦略目標といったものを有していなかった。対して植民地側の総督たちの中には本国の「ピューリタン革命」の時にクロムウェルのもとで戦った経験を持つ者もおり、11月19日には1000の兵でナラガンセット族の本営のある「恐怖の沼地」を攻撃し、2000人を殺すという戦果をあげた。この戦闘はたったの3時間でケリがついた。植民地軍はその日の朝から18マイルの雪道を歩いてここまで進軍し、その日のうちに出発点に帰っていった。植民地側の戦死者は80人、ニューイングランドの歴史中最大の激戦である。註2 アメリカ独立戦争の時もニューイングランドではそれほどの激戦はなかった。南北戦争の戦火はここには及んでいない。 戦闘はなおも続いたが、大局は既に決していた。76年4月3日、インディアン軍の指導者の1人カノンチェットが逮捕・処刑された。死刑の宣告に対し「それは結構だ。わしの心が挫けたり、わしに相応しくないことを言ってしまう前に、わしは死んでいくのだ」。4ヵ月後の8月12日にはフィリップ王ことメタコムが戦死を遂げた。 「フィリップ王戦争」全体における白人の死者は約1000人。その報復として、捕虜になったインディアンは奴隷としてカリブ海植民地に売り飛ばされた。ニューイングランド南部のインディアン人口は1500人程度に落ち込んだ。敵対部族も友好部族も指定集落に押し込められ、やがては白人社会の中に埋没していったのである。 註3 ただし、メイン地方に住むアブナキ族は最後までイギリス人と互角に戦い抜き、条約を結んだ上で停戦した。彼等は後の英仏植民地戦争の際にフランスに加担することとなる。 ・ブラドッグの敗戦 1740年代以降、イギリス植民地の毛皮商人がミシシッピー河支流のオハイオ川流域に入り込もうとしていた。ヴァージニア植民地で組織された「オハイオ会社」は100万エーカーの土地獲得を目指し、その他にもいくつかの会社がこの地域のインディアンとの交易を進めていた。いうまでもなくミシシッピー方面はフランスの縄張りであり、そちらはオハイオ川上流に砦を築いてイギリス人の進出に対処した。 砦の建設に関してヴァージニア総督ディンウィッディーが抗議したが無視された。そこでディンウィッディーはオハイオ川とアレゲニー川の合流点という重要拠点を制圧すべく150人の民兵隊を派遣した。この時大佐として民兵の指揮をとったのが後の合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンその人である。御年21歳、ヴァージニアの大プランターの出身である(註1)。 註1 異母兄の婚姻関係を通じて植民地の支配層にも有力な伝手をもっていた。16歳で測量技師となり(未開拓の地がいくらでもある=測量の仕事もたくさんある)、その後民兵隊に転じたのである。 しかしこれは一足遅かった。目的地にはフランス人がフォート・デュケーヌという要塞を築いてヴァージニア民兵隊を待ち構えていた。54年7月3日、怖いもの知らずのワシントン大佐が部下に発砲を命じ、宣戦布告もなにもないまま本格的な戦闘が始まった。結果はヴァージニア民兵隊の惨敗、3分の1が死傷し、降伏したあげくヴァージニアに帰ることを許してもらうという有り様である。 この段階では英仏両本国は全面的な大戦争をするつもりはなく、イギリスの方がとりあえず局地的限定的な戦闘で優位を得るために本国から定数に満たない2個聯隊を送るにとどまった。13植民地のうち7つが「オルバニー会議」に結集して植民地の大同団結をはかったが、各個の利害が衝突して話がまとまらなかった。 本国からやってきた2個聯隊を率いるブラドック少将はただちに進撃を開始した。兵力は約1500人、幕僚にはワシントンがいた。目的地のフランス要塞フォート・デュケーヌは現在のペンシルヴァニア州西部に位置し、それだけ聞けば「イギリス植民地のすぐ近所か」と思ってしまうがそれはとんでもない勘違いである。イギリス人の居住地はこの時代でもまだ大西洋沿岸部からそんなに離れておらず、海岸から西に300?も進めばそこはもはや(白人にとっては)人跡未踏の未開の大地であった(註2)。イギリス側の拠点から目的地フォート・デュケーヌまで110マイル、道らしい道もなく、300人の工兵隊が斧を振るって森を切り開く。遠征隊の資材の一部を調達したのはベンジャミン・フランクリン(註3)、さらに馭者として21歳のダニエル・ブーン(註4)が加わっていた。 註2 現在のアメリカ合衆国の地図を見ると、東部にアパラチア山脈という山岳が南北に続いている。現在の合衆国を見る限りではこれはどう見ても東部の山々だが、イギリス植民地人がアパラチアの西側に村を築いたのはやっと1775年のことである。 註3 政治家にして外交官にして自然科学者にして社会運動家にして文学者。詳しくは自伝を参照。 註4 「西部開拓の先駆者」と呼ばれる人物。現在のケンタッキー州の原形をつくる等、西部の辺境にいくつかの村を建設するが、人口が多くなるごとに「人ごみで息がつまりそうだ」としてさらに西へと移っていったことで有名。 55年7月9日、目的地から数マイルに迫ったブラドック軍の後衛がモノンガヒーラ川の浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の不意の攻撃が始まった。ブラドック軍にはインディアン(地理に詳しい)が8人しかおらず、警戒が不十分であった。フランス軍は正規の士官と兵士73人、民兵150人、友好インディアン637人、と数の上では劣っていたがブラドック軍を収拾のつかない大混乱に陥れた。ブラドックは打ち倒された馬を何頭も乗り換えたあげく自身も胸に弾を喰らって負傷、結局死亡した。ダニエル・ブーンは馬車の馬具を切って裸馬に飛び乗り全速力で逃走した。指揮権を引き継いだダンバー大佐やワシントン等がなんとか残兵をまとめて退却した。死傷者は全軍の3分の2にあたる977人にのぼっていた。いわゆる「ブラドックの敗戦」である。 それはともかく、これまでのイギリスとフランスの戦争はまずヨーロッパで起こった戦いが植民地に波及するという形をとっていたのが、今回の戦争は逆に植民地の方が先に火蓋を切った訳である。 それに対応して、ヨーロッパでも新たな戦いが始まろうとしていた。先の「オーストリア継承戦争」で苦杯を飲まされたオーストリア女帝(註1)マリア・テレジアはプロイセンへの復讐を誓ってまずロシアと同盟し、さらに前回の敵国フランスを同盟に引き入れた。フランスとオーストリア(ハプスブルグ家)は200年来のライヴァルであったこととて話はなかなか進まなかったが、フランス王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人をかき口説いてどうにか同盟締結に持ち込んだのである。世にいう「外交革命」である。 註1 正確には旦那が「神聖ローマ皇帝」なのだが、慣例として彼女も「オーストリア女帝」と呼ばれる。それに相応しい女性である。 こうしてすっかり孤立したプロイセンは、56年の夏に先手を打って軍勢を動かし、ここに「七年戦争」が勃発した。オーストリアは前回(オーストリア継承戦争)の同盟国イギリスにも協力を求めたが、イギリスは既にアメリカでフランス軍と戦闘中であることからこれを断り、かわりにプロイセンに味方した。フランスの目をヨーロッパに集中させておき、その隙に植民地を根こそぎ奪おうとの魂胆である。 正確には、イギリスは5月17日にフランスに対し正式に宣戦を布告していた。フランスは英仏海峡沿いに6万の兵力を展開し、さらに地中海のイギリス領ミノルカ島に上陸軍を派遣した。イギリスはビング提督の艦隊を送ってこれを防ごうとした。 かくして「ミノルカ沖の海戦」が出来した。兵力は英仏両艦隊とも12隻である。この時単縦陣でフランス艦隊に殺到しようとしたイギリス艦隊はその前衛に属する1隻が大損害を被ったことから戦列が大幅に乱れてしまい、そのままジブラルタルに退却するハメに陥った。結局ミノルカ島はフランス軍に占領され、責任を問われたビング提督は軍法会議の結果銃殺刑に処せられた。 57年には大陸(ヨーロッパ)でまず6月に同盟国プロイセンの軍勢が「コリンの戦い」にてオーストリア軍に敗北し、7月にはイギリスの大陸派遣軍が「ハステンベックの戦い」にてフランス軍に敗れ去った。が、それはあまり重要ではない。プロイセンはともかくイギリスは植民地の方が大事である。この年6月23日、インドで「プラッシーの戦い」が行われ、クライヴ率いるイギリス軍が、フランスの軍事支援を受けたベンガル大守の大軍を撃破した。ようやくイギリス軍にも本格的な勝機がまわってきた。11〜12月、プロイセン軍がロスバッハとロイテンにて連勝し、軍事的天才フリードリヒ2世はイギリスでも大人気となった。 58年、イギリス艦隊が本国を出撃、ひとまずカナダ沖のケープ・ブレトン島ルイスバーグ港をその標的に定めた。ここは「ジョージ王戦争」の時に一旦イギリス側が占領したが48年のアーヘン条約によりフランスに返還されていた。北大西洋におけるフランスの鱈漁を守る重要拠点である。ボズカーウェン提督率いるイギリス艦隊は輸送船を含めて大小167隻、陸兵はアマースト等の率いる14個大隊である。これまでの植民地戦争が基本的に現地まかせだったのと異なり、イギリスは今回の戦争に関しては本国から北米へと大軍を投入した。対するフランスの方は海軍が弱いせいでなかなか思うにまかせない。アン女王戦争の頃25万程度の人口しかもたなかったイギリス領北アメリカは今では百数十万の人口を持ち、イギリス帝国内において経済的政治的になくてはならない存在となっていた。これに軍事的脅威を与えるフランス植民地をこの際徹底的に叩かねばならない。 6月、イギリス艦隊がルイスバーグの沖に姿を現した。フランス軍は港の入口に艦船4隻を自沈させてイギリス艦隊の針路を阻もうとした。しかし港内のフランス艦隊は失火から5隻を失い、炎と煙の合間からイギリス軍のボート隊の侵入を許してしまった。別方面ではジェームズ・ウルフの率いる4個大隊が上陸を果たしており、フランス軍3600人はやむなく降伏した。大陸(アメリカ)でもいくつかの戦火が交えられ、「フレンチ・インディアン戦争」のそもそもの勃発点であるフォート・デュケーヌを占領した英将フォーブス将軍はこの町を本国の宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名した。フォーブス軍にはワシントンも従っていた。付近のインディアン部族の一部がフランスから離反した。イギリス植民地南部でフランス軍に呼応して反乱を起こしていたクリーク族やチェロキー族も撃破され、特にチェロキー族は全戦士の半数を失うという打撃を被った。 翌年、北米のイギリス軍は4つに分かれ、うち3つが陸路から五大湖方面へと北上し、あとひとつが海路からケベックを攻略するとの作戦がたてられた。五大湖方面に出た軍はこの地域をあらかた占領したが、物資を使い果たしたりしてそれ以上は進めなかった。陸路からカナダに遠征する作戦はウィリアム王戦争以来何度も行われてことごとく中途で息が切れ、十数年後のアメリカ独立戦争、五十数年後の米英戦争でもやっぱり失敗することになる。それはともかく1759年の戦役である。残りは海路軍である。フランス海軍はもともと総戦力で劣る上にこの59年に各地の海戦でイギリス艦隊に敗れさり、もはや植民地への救援は不可能となった。イギリス海軍はフランスの主な港湾を封鎖して敵艦隊を圧伏する一方で、輸送船団に護衛をつけて私掠船の攻撃を防ごうとした。 ケベック攻略の海路軍は、200隻の船団を指揮するのがソーンダーズ提督、上陸軍8500を指揮するのがジェイムズ・ウルフ陸軍少将である。6月6日から始まったセントローレンス河の遡行は相当の困難が予測されたが、船団の先頭を進むジェイムズ・クック船長が慎重な深度測定・浮標設置を行って僚船の座礁を回避した。後に太平洋探険で名を馳せるキャプテン・クックその人である。 6月27日、イギリス軍がケベックの東4マイルに到着した。待ち構えるフランス軍は民兵1万(註2)に正規軍3000、友好インディアン1000を集めていた。ケベックは堅固な城塞と河に守られており、1万足らずのイギリス軍がこれを攻め落とすのは容易なことではない。 註2 当時のヌーヴェル・フランスの白人総人口は約6万である。女性が少ないのがその特徴だが、16〜60歳の男子は全て非常時に民兵として動員されることになっていた。 そこでイギリス軍の上陸軍司令官ウルフ将軍は、まずケベックからセントローレンス河を挟んで東側にあるレヴィ岬を占領して砲陣を築き、そこから直接ケベック市内に大砲を撃ち込めるようにした。イギリス艦隊は何度もセントローレンス河を遡行してきてフランス艦隊と砲戦を交えて制海(河)権を奪取した。ウルフはさらにケベックの北東に2個旅団を配してフランス軍の目をひきつけた。7月19日、レヴィ岬からの援護射撃に守られたイギリス側小艦隊がケベックの目の前を通り過ぎてその20マイル上流(西)に上陸した。ケベックは東と北東と西を囲まれたことになる。ただし、市の西のアブラハム平原の南側(河岸)は断崖となっており、そちらからの攻撃は不可能と考えられた。 9月12日夜、ウルフ自ら率いるイギリス軍1700人がケベックの西の陣地(正確には輸送船)からボートに乗り組み、セントローレンス河を下り始めた。フランス側の予定ではこの日味方の輸送船が河を移動することになっており、それと勘違いしてしまった。ただ一度だけ誰何があった。「誰か?」「フランスだ」「どの聯隊だ?」「国王のだ」。ボート隊はアブラハム平原南岸の断崖に到着し、まえもって見つけておいた隘路を登り始めた。ボートが各陣地を足繁く行き来し、13日の夜明けまでに総勢4500人の揚陸を完了した。 ようやく異変に気付いたフランス軍が大急ぎで駆けつけてきた。その数4000。午前10時、フランス軍が前進を開始した。イギリス軍はその4分の3が一列横隊を組んでじっと待ち構える。フランス軍がわずか40ヤードに迫ったところで狙いすました一斉射撃、また射撃、そして銃剣突撃にうつる。キルトをはいたハイランダー部隊(註3)も刀(クレイモア)を抜いて突撃した。しかし、続く乱戦でフランス軍を総崩れに追い込んだものの、イギリス軍の損害もかなりのものだった。死傷者は両軍ともに約300人、英将ウルフ・仏将モンカルム共に致命傷を受け相次いで死亡した。ウルフはまだ33歳であった。「栄光の道もただ墳墓に至るのみ」。17日、ケベック市は降伏した。若き英雄ウルフ将軍の活躍は大変な評判となり、子供たちはその後何十年にも渡ってウルフを讃える「楓の葉よ永遠に」を暗唱した。「いまは昔、イギリスの岸辺から、豪勇無双の英雄ウルフが出港し、麗しきカナダの地にブリタニアの旗を打ち立てぬ」。 註3 スコットランド高地人の部隊。つい十数年前まではイギリスの支配に抵抗していたが、この頃にはイギリス軍の主要な一部となっていた。 60年9月、カナダのフランス勢力最後の拠点モントリオールが降伏した。まだ一部の親仏インディアンが抵抗していたが、北米大陸における戦火はほぼ終息した。翌61年1月にはインドのフランス拠点ポンディシェリーを占領、インドのフランス勢力を完全に制圧した。残りはヨーロッパ(大陸)とカリブ海である。 同年11月、イギリス本国からロドニー少将の艦隊40隻が出撃し、翌年1月に到着した陸兵1万5000とでカリブ海のフランス拠点マルティニーク島を攻略した。艦砲を陸にあげての猛攻によりケリは10日でつく。死傷者は500人。グラナダ島やセントルシヤ島も前後してイギリス艦隊の軍門に下る。 このすぐ後、フランス本国でイギリス艦隊の封鎖を受けていたブレスト港からブレナック率いるフランス艦隊12隻が暴風雨に紛れて脱出、カリブ海のケープフランソワに来航して、さらにキューバ島のハバァナにいるスペイン艦隊12隻との合流をはかろうとした(註4)。 註4 イギリスは62年1月をもってフランスの同盟国スペインに宣戦を布告していた。 イギリス側にはボコック大将と増援艦隊が着任して全作戦を練り直した。ハーヴェー艦隊を分遣してケープフランソワのフランス艦隊を封じ込め、ロドニー艦隊はマルティニーク島の警備、ボコック率いる主力艦隊がスペイン艦隊のいるキューバ島ハバァナを攻略するとの作戦である。 62年6月、イギリス軍1万6000がハバァナ東方に上陸、モロ城でスペイン軍の頑強な抵抗にあい200の死傷者を出したがこれを落した時点でスペイン軍は戦意を喪失した。スペイン艦隊は全滅した。 ただ、ちょうど同じ頃、イギリス艦隊の主力がカリブ海に集中している隙に、やはりブレスト港の封鎖を突破したフランスのテルネー艦隊が防備の手薄なカナダのセントジョン港を攻略、占領するという事態が出来した。だがこれはもう末期のあがきである。9月、ハリファクスからイギリスのコルビレ艦隊、ニューヨークからアルヘンストの陸軍部隊が到着してセントジョンを包囲した。フランス軍はあっけなく降伏した。 戦闘は東南アジアでも行われた。62年8月、インドのマドラス港からイギリス艦隊14隻が出撃、9月23日にスペイン領フィリピンのマニラ湾に侵入した。翌24日に上陸したイギリス軍の兵力は約2300、スペイン守備隊800人と10日間に渡って戦闘しこれを降伏せしめた。この年にはヨーロッパ(大陸)の戦局も奇跡の大逆転をとげていた。イギリスの同盟国プロイセンはそれまでオーストリア・ロシア・フランスの猛攻を受け、いくどかの勝利を得つつもじりじりと崩壊へと進んでいたのだが、この年1月にロシア女帝エリザベートが死去してプロイセン贔屓のピョートル3世が即位し、同盟国になんの相談もなくプロイセンとの単独講和を締結したのである。プロイセン軍は一挙に活気づき、反撃に出て各地にオーストリア軍を撃破した。 1763年2月10日、「パリ条約」が結ばれた。フランスは北大西洋ニューファウンドランド島沖のサン・ピエールとミクロンという2つの小島、カリブ海のマルティニーク島・グアドループ島・サントドミンゴ島及びいくつかの小島、インドのポンディシェリーをなんとか返してもらったものの、カナダの全部とルイジアナのミシシッピー河以東を失った。スペインはハバァナとフィリピンを返還されたがフロリダをイギリスに割譲した。ただスペインは同盟国フランスからの詫びとしてルイジアナのミシシッピー河以西を譲られた。(註5)プロイセンとオーストリアも「フベルトゥスブルクの和約」を結び、プロイセンのシレジア領有が確定した。 註5 1783年、「アメリカ独立戦争」の決着をつける「パリ条約」が結ばれ、ミシシッピー河以東のルイジアナはアメリカ合衆国領とされることとなる。同時に結ばれた「ヴェルサイユ条約」ではフロリダがスペイン(アメリカ独立軍を支援していた)に返還された。フロリダはさらに1819年に合衆国に500万ドルで買収される。ミシシッピー河以東のルイジアナは1800年の「サン・イルデフォンソ条約」によって(ナポレオンの軍事的圧力によって)フランス領に戻され、さの3年後に合衆国に1500万ドルで売却された。 なんにせよ、フランスは北米大陸から完全に追放され、17世紀初頭から連綿と維持されてきた「ヌーヴェル・フランス」は崩壊した(註6)。一時は1000〜1200万?の面積と3000万とも言われる人口(註7)を抱えたフランス植民地は今やたったの4万?に40万人を数えるのみであった。フランスはルイ14世以来の相次ぐ戦争や宮廷の浪費を賄うために一般庶民に巨額の税金をかけ、もはやこれ以上搾り取れないところまで来てしまっていた。しかし、これまで免税特権を受けてきた貴族や上級聖職者の財産に手が付けられた時、この国は再びイギリスの恐るべき敵となってその前に姿を現すこととなる(註8)。フランスはスペインやオランダとは違い、まだ完全に転落した訳ではないのである。 註6 もちろん、そこに住んでいたフランス人入植者は今(21世紀)現在でもそこに生き続けている。その一方でフロリダのスペイン人は全員自主的に退去した。 註7 『フランス植民地帝国の歴史』より。ほとんどインド植民地の人口と思われる。 註8 その前の「アメリカ独立戦争」でアメリカ独立軍に加担してイギリスに勝利するのだが、経費がかかりすぎて完全にパンクするのである。 イギリス側にとって、この「勝利はあまりにも完璧すぎた(アメリカの歴史?)」華やかすぎる勝ち戦ゆえに、その後にくる現実の苦さがひとしおとなるのである。 「七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)」の結果、イギリスは1億3000万ポンドもの国債を抱えるに至っていた。また、ミシシッピー河以東のルイジアナという広大な領土を得たのはよいが、そこでこれまでフランスと結んでいたインディアン諸部族の反抗がまだ続いていた(註9)。これは大西洋岸のイギリス植民地人がルイジアナへと入り込んでくることへの危機感も働いており、対応に苦慮したイギリス本国は63年10月をもって植民地人のアパラチア山脈以西への移住を制限する「国王宣言」を発布した。「フレンチ・インディアン戦争」のそもそものはじまりは植民地人がそのアパラチア山脈以西(つまりルイジアナ)の開拓を望んだことから起こったのであって、ようやくフランスの脅威から解放されて(好きなだけルイジアナに移住出来ると)喜んでいた植民者を怒らせることしきりである。 註9 特にデラウェア族の反乱は激烈だった。イギリス軍は天然痘患者の着ていた服をデラウェア族に送るという、現在でいう細菌作戦を行ったといわれている。(「デラウェア族」というのは白人のつけた名称) さらに、本国政府は戦時においてすら直接植民地人に課税することはなかった(関税はとった)のだが、財政難に苦しむ本国は65年ついに「印紙条例」を導入してこの慣例を破ることとなる。イギリス法制の原則では税金の徴集は各地方の代表が参集する議会の承認を得た上でのみ行われるものであり、つまり本当は、本国議会に代表を送っていないアメリカ植民地に課税出来るのはそれぞれの植民地議会〜13の植民地(註10)全てに存在する〜のみなのである。もちろん当時の参政権は財産(土地)を持つ者のみに限られていたが、アメリカ13植民地の白人住民の多くは自分の土地を所有し百数十年に渡って植民地議会における自治を積み重ねてきた実績を持ち、本国の政策に唯々諾々として従うつもりは全くない。 註10 ここではその後のアメリカ合衆国に参加しないカリブ海やカナダ植民地は除外する。 しかも、フレンチ・インディアン戦争以降のアメリカ植民地への課税は北米の13の植民地に対して一括して行われるのであり、バラバラに誕生してそれぞれ異なる社会と利害をもって行動してきた13の植民地を1つにまとめる直接の凝固剤となる。 |
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 |