クリッパートン島事件
1931/1/28
国際仲裁裁判


POSTE ITALIANE
イタリア国王エマヌエーレ3世

イタリア 1929/4/21 発行



ココヤ
FRANCE
クリッパートン島

フランス 2011 発行


サンゴ礁の礁湖

クリッパートン島事件 (判決:1931/1/28)
  Clipperton Island Case

   (国際仲裁裁判)
クリッパートン島事件は仲裁国際裁判で、無人島の先占と実効支配が領有権確定の決め手となりました。1897年にフランス海軍の艦艇はクリッパートン島グアノを採掘している3人を発見した。この3人はアメリカ合衆国の民間企業に雇用されており、アメリカの星条旗を掲揚していたため、フランス政府はアメリカ合衆国政府に抗議。1898/1/28、アメリカ政府はこの企業にグアノ採掘の許可を与えておらず、アメリカは領有権を主張する意思はないと回答。この回答の直前、米仏の交渉の最中にイギリスが同島を獲得しようとしているとの誤報を信じたスペインから独立したメキシコが砲艦ラ・デモクラタ号(gunboat La Democrata)を同島に派遣し、前述の3人を見つけ出し、米国の星条旗を降ろさせ、メキシコ国旗を掲揚させた。この行為に対し1898/1/8に、フランスはメキシコに「クリッパートン島はフランス領である」と抗議した。両国政府は国際紛争解決のため、第三国のイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(Victor Emmanuel III 1869-1947)を単独仲裁人とする仲裁裁判に付託する条約を調印し、1911/5/9に発効された。イタリア国王による判決は1931/1/28に下されたが、その主旨は「1858/11/17からフランスに帰属する」というもので、フランス勝訴の判決でした。

判決の主旨:〜メキシコは、クリッパートン島はスペインが発見したパッシォン島(Passion)もしくはメダスノ島(Medanos)と同一であり、ローマ法王アレクサンデル6世(Alexander VI, 1431-1503)の勅書(トルデシリャス条約、1494)によりスペインに帰属した後、1836年以降はメキシコが継承したと主張していた。この主張に対し判決は、このスペイン人が発見した島と同一であるとする証明はないとして、仮に同一であっても「スペインは編入する権利を持つだけでなく、その権利を実効的に行使したことを証明する必要がある」としたうえ、メキシコが提出した「証拠」の地図は公的に製作されたものとは確認できないとして退けた。またメキシコが同島に対する自国主権の行使は1897年であり、歴史的権利をメキシコが有していたと証明できない。一方、フランスは1858年に領有する意思を明確に示しており、たとえ主権の表示を残さず離島しても、布告・通告・公布・新聞による公表で領有は成立している。よってフランスは先住民が存在しない無主地を先占したものであり、占有の実行が完成している。またフランスが主権的行使をしなかったため同島の権利を遺棄し失ったというメキシコの主張については、権利を放棄する意思を持っていないため、認定できないとした。また欧州列強による領有宣言を列強諸国に通達することを義務つけた1885年のベルリン議定書35条違反であり同島の領有は無効というメキシコの主張については、領有宣言が同議定書締結以前であるうえ、同議定書はアフリカ大陸対象であり、メキシコは非締結国でありこの義務を考慮する必要はないとした。

以上のことから、「無人島の領有権を取得できる先占が成立する条件として、発見だけでなく領有意思の有効な表示と実効的占有が必要であり、島を最初に発見したスペインおよびメキシコではなく領有意思を最初に表明したフランスにある」とした判決となりました。

参考HP:〜
クリパートン島の地図
クリパートン島の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。        13/2/22
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