★トピックス 日本最初の記念切手 明治切手★


IMPERIAL JAPANESE POST
便郵国帝本日大


2銭               5銭
 
菊花紋に鳳凰と唐草模様
明治28年(1894.3.9)

明治天皇・銀婚式記念


明治天皇皇后両陛下の銀婚式を記念して「2銭」と「5銭」の切手が明治28年(1894.3.9) に発行されました。いつでも郵便局で販売されている切手を「通常切手」と呼んでいますが、これに対して何か特別の行事とかを記念して発売される切手を記念切手と呼んでいます。これらの他にシリーズ物とかが有ります。明治時代に発行された記念切手は10種類あります。


★トピックス 明治時代の記念切手 明治切手★

IMPERIAL JAPANESE POST
便郵国帝本日大
明治天皇・銀婚式記念 日清戦争勝利記念
2銭
5銭
5銭
2銭
明治28年(1894.3.9) 有栖川宮 北白川宮
明治30年(1896.8.1)4種発行

東宮御婚儀祝典

日韓通信合同記念

明治三十七八年戦役
陸軍凱旋観兵式記念
3銭

お祝の品
3銭

日韓の紋章
1銭五厘

各種兵器
 5銭

各種兵器
大正天皇ご成婚記念
明治30年(1900.5.10)
明治38年(1905.7.1) 日露戦争勝利記念
明治39年(1906.4.29)

明治時代に発行された記念切手は良くその時代を反映していますね。
武士の幕府から天皇へ政権が移ったのと「戦争」の時代ですねぇ〜 。

明治ご維新のとき、「官軍(新政府軍)」の総督は有栖川宮(ありすがわのみや)でした。
一方の「上野の彰義隊」の盟主は輪王寺宮(りんのうじのみや、後の北白川宮)でした。
それが、日清戦争の勝利では、このように並んで記念切手に成っています。

有栖川宮熾仁親王
(ありすがわのみや たるひとしんのう)、1835/3/17(天保6/2/19)〜1895/1/15(明治28年)
江戸幕末〜明治時代の皇族、筑前国福岡藩第2代知藩事、京都で生まれ神戸没。明治27年(1894)に勃発した日清戦争で、熾仁親王は陸海軍の総司令官として広島大本営に着任、ここでで腸チフス(当初はマラリアと診断)を発症、兵庫県神戸市垂水区舞子の有栖川宮舞子別邸で静養。症状は一旦軽快、翌明治28年(1895)に再び悪化、治療もむなしく1/14に危篤。その知らせを受けた明治天皇が「大勲位菊花章頸飾」授与を決定。翌1/15に終戦を待たず舞子別邸で61才で亡くなりました。

北白川宮能久親王
(きたしらかわのみや よしひさしんのう)、1847/4/1(弘化4/2/16)〜1895/10/28(明治28年)
伏見宮邦家親王の第9王子、幕末・明治時代の皇族、大日本帝国陸軍の中将(贈大将)で近衛師団長、京都で生まれ台湾没。慶応3年(1867)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入って輪王寺宮(後の北白川宮能久親王)となっていましたが、上野戦争で寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて彰義隊の盟主としてかつがれて戦争に巻き込まれました。その敗北で東北に逃亡。仙台藩のもとに身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されました。明治元年(1868)9月に仙台藩は新政府軍に降伏、親王は京都で蟄居(ちっきょ)。
明治2年(1869)9月、処分を解かれ、明治3年(1870)10月に伏見宮家に復帰、明治天皇の命により還俗。明治3年(1870)12月ドイツ(プロイセン)に留学。明治9年12月にドイツの貴族のベルタ未亡人と婚約、明治政府に結婚の許可を申し出、明治政府は難色し、帰国を命じる。帰国の直前、能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表。明治10年7月に帰国し、岩倉具視らの説得で婚約を破棄し京都で謹慎。明治17年(1884)に陸軍少将、明治25年(1892)中将に昇進。獨逸学協会の初代総裁、後に獨逸学協会学校設立に尽力。明治26/11/10(1893)に第4師団長。明治28年(1895)、日清戦争で日本に割譲された台湾征討に近衛師団長として出征。マラリアに罹患し台湾全土平定直前、台湾の台南で亡くなりました。このように、親王家の庶子として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごして、一時は朝敵の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運にも亡くなる(48才)という数奇な人生を送りました。

この2人の皇族の肖像が記念切手に取り上げられた理由は「戦果を華々しくうたう切手を発行すると清国の国民感情を害するおそれがあったため、亡くなった2人を偲ぶことで、ひっそりと戦勝を祝う意図があった」というのが明治時代の一般的な説明と言われています。私見を言いますと、戊辰戦争の清算が背景に隠されているんではないでしょうか。有栖川宮さんは戊辰戦争の時の東征大総督、すなわち官軍のトップでした。一方の北白川宮さんは戊辰戦争の時は“輪王寺宮”として上野の山に立て篭もって官軍と戦っていた、すなわち賊軍のトップ(象徴)でした。戊辰戦争で敵と味方に分かれて戦った2人の皇族は、20数年後の日清戦争という国難に際して挙国一致体制の中、ともに帝国陸軍の幹部として亡くなり靖国神社(戊辰戦争の時の賊軍の犠牲者は靖国のリストには無い)に祭られました。戊辰戦争の“勝組”であった薩長藩閥も考えたんでしょうね〜ぇ!    08/12/25追記

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