★イギリスVS ナチスドイツ |
大航海物語 参考資料★ |
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ラプラタ河沖の海戦 1939 |
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ラプラタ河沖 | 戦争 | ラプラタ河沖 |
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ナチスドイツ・ポケット戦艦 Admiral Graf Spee グラフ・シュペー号 フォークランド 1974/12/13 発行 |
ナチスドイツ・ポケット戦艦 グラフ・シュペー号 マーシャル 1998 発行 |
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イギリス重巡洋艦 エクゼター号 HMS Exeter |
イギリス軽巡洋艦 エイジャックス号 HMS Ajax |
ニュージランド軽巡洋艦 アキリーズ号 HMZS Achilles |
Battle of The River Plata Dec.13 1939 ラプラタ河沖の海戦35年記念 フォークランド 1974/12/13 発行 |
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アルぜンチィン 1988 発行
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ラプラタ河沖海戦 (1939/12/13) Battle of the River Plate ラプラタ河沖海戦は第2次世界大戦中にラプラタ河々口の沖合いで起った海戦で、開戦以来大西洋、インド洋で通商破壊戦を行っていたドイツのポケット戦艦(Pocket Battleship)と呼ばれていたドイッチュラント級重巡洋艦(Deutschland-class Heavy Cruiser)アドミラル・グラーフ・シュペー号(Admiral Graf Spee)がイギリスの巡洋艦3隻と交戦しました。戦闘後、損傷を受けたシュペー号は中立国ウルグアイ のモンテビデオ港に入港し、17日港外で自沈しました。 ドイツは第一次大戦の敗戦によりベルサイユ条約のもとで軍備に制限が課せられていました。戦闘艦の新造もその制限の一つで、条約により基準排水量1万トン未満、主砲口径も28センチまでという最大枠が限られていました。その制限枠一杯を利用して、列強各国の重巡洋艦よりも強力な武装を持った重巡洋艦と戦艦の中間を行く戦闘艦として、ドイツでは装甲艦(Panzerschiff)、他国ではポケット戦艦 (Pocket Battleship)と呼ばれるようになりました。ポケット戦艦はドイツ海軍の戦略方針により通商破壊作戦を念頭に置いていたため、長大な航続力を発揮するディーゼル機関を持ち、想定される敵艦(主に英国の戦艦や巡洋艦)よりも速い最高速度を持っていました。また軽量化のため装甲は薄く、艦型をコンパクトにまとめるため極力小型化された艦橋など斬新なデザインが施されている。「アドミラル・グラフ・シュペー」はその3番艦として建造され、1936年1月6日に竣工ました。 ・シュペー号、1939(昭和14)年8月21日ドイツ出港; 第2次世界大戦開戦に先立ち、ドイツ海軍ポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」(艦長ハンス・ラングスドルフ大佐)がヴィルヘルムスハーフェンを出港しました。9月3日にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告しました。この時点でシュペー号はアゾレス諸島南方沖を航行中でした。9月24日にドイツは通商破壊戦の開始を許可。これ以後、シュペー号は南大西洋、インド洋で英商船9隻計50,089トンを撃沈しました。その間シュペー号は本国はもちろん中立国に一度も寄港せず独油糟船アルトマルク号から数回にわたって洋上給油と食料品などの補給を受けました。12月2日にはイギリス船”ドーリック・スター号”がシュペー号の位置を無電で発信しましたが、ドーリック・スター号はシュペー号の砲撃で撃沈されました。 ヘンリー・ハーウッド代将の指揮するイギリス南太平洋方面艦隊南米支隊は ・重巡洋艦のエクセター(8,390t,8インチ砲搭載) ・軽巡洋艦のエイジャックス(6,985t,6インチ砲搭載), ・ニュージーランドのアキリーズ(7,030t,6インチ砲搭載) ・装甲巡洋艦カンバーランド(9,750t)は(遠くフォークランドで待機)からなっていました シュペー号を追跡、攻撃した英国の軽巡洋艦のエイジャックスなどの3隻で広大な海洋に出没するシュペー号を発見するのは極めて困難と思われましたが,ハーウッド代将はシュペー号のこれまでの航路を分析した結果、12月12,13日頃にラ・プラタ沖に出現すると考え,上記3艦を同洋上に集結させました。彼の予想どおり12月13日早朝(6時10分)シュペー号を発見(実は敵艦シュペー号はこの10分前に英艦隊を発見しています), かねての作戦どおりエクセターをシュペー号の左舷,他の2艦を右舷方向に展開させ両翼方位陣形をとりました。 壮絶な砲撃戦が開始し始めましたが,圧倒的に火力でまさるシュペー号11インチの主砲はエクセターに集中し,たった17分の間に同艦に甚大な被害を与えました。すなわち,艦前部における浸水により艦首3フィート沈下,右舷における650tの浸水により7〜10フィート右へ傾斜,先任下士官居住区,塗料庫など各所に火災発生,艦橋,方位盤,発令所およびほとんどの砲塔は直撃弾により機能喪失,無線通信,艦内電話機能完全喪失などの被害をこうむり,戦死者50名以上,重傷者20名以上にも達しました。かくしてエクセターは戦線を離脱せざるを得なくなりましたが,幸い機関部には重大な被害を受けず自力運転は可能でした。エクセターは不必要に高い前後2本のマストを有していて標的になりやすかったこと,シュペー号にとって脅威となりうる8インチ砲を有していたことおよびシュペー号後方より併行して追跡していたことなどから主標的となり甚大な被害を蒙ったものと考えられます。 一方,シュペー号は外見上さほどの被害を受けたようには見られませんでしたが,エクセターの8インチ主砲や執拗なエイジャックス,アキリーズ両艦の6インチ砲による攻撃でかなりの被害を受けていました。右舷における前後部被弾,左舷における艦首水線上0.9x1.8mの破孔,中部の浸水,艦長公室,配膳室の破壊,後部の魚雷装填台,士官公室,先任下士官室,食堂等貫通のほかしょう楼部,艦橋の被弾等です。乗員の死傷状況は戦死者36〜37名,重傷6名,軽傷53名に達しています。砲撃戦開始から1時間半後,ラングスドルフ艦長は艦内の乗員の死傷者数や損害状況,乗員の士気を調査した結果,最寄の中立港に退避する必要があると判断し,ラ・プラタ河口からウルグァイ国モンテビデオ港に向かいました。2隻の英巡洋艦はその後を執拗に追跡し続けました。23時50分,シュペー号はモンテビデオ港に入港しました。 シュペー号の動向は全世界が注目するところとなり各国からの新聞記者や放送記者がモンテビデオに集まり,中には現地から中継放送をする局まで出てきました。当時のウルグァイの全人口は200万人位でしたが,河畔に集まった群衆はなんと3分の1以上の75万人にも達し固唾を飲んで豆戦艦を見守っていました。 シュペー号のモンテビデオ入港に伴い,ウルグァイ政府を中心にして英,独間の熾烈な外交戦,情報戦が始まりました。ドイツ側は急遽ウルグァイ駐在ドイツ大使ラングマン博士,アルゼンティン大使館海軍武官,ラングスドルフ艦長などが集まり,事後対策を協議しました。その結果,シュペー号の修理日数は最短でも14日間が必要としてウルグァイ政府と在泊期間について交渉しました。一方,イギリス側はドレイク駐在公使とハーウッド代将がウルグァイ政府との交渉にあたり,1907年成立のハーグ協定第11条に基づき24時間以内の出航を強く要望しました。しかし,この条項の解釈は中立国によってかなり異なり,第一次世界大戦で数週間も在泊した例もあり,中立国ウルグァイ政府としてはその対応に非常に苦慮したものと思われます。24時間以内に出港というイギリスの主張は実は表向きのことで,今回の交戦で弾薬や燃料が十分でなくなった軽巡2隻ではシュペー号に対抗できないので1週間後の援軍到着まで停泊を引き伸ばしたいというのが本音でした。そこで,イギリス側はラ・プラタ河口には数隻の英軍艦が待機しているなどの偽情報を流しました。これらの情報はドイツ側の正確な判断を惑わし遂にはシュペー号の自爆に導きます。 ところで,入港したシュペー号には拿捕,撃沈された英商船の船員61名が収容されていましたが,ラングスドルフ艦長は直ちに釈放しています。彼は商船破壊活動中死傷者を一人も出していません。収容中の扱いも人道的であったといいます。映画では,最後に拿捕された英小汽船アフリカ・シェル号のダヴ船長とは奇妙な友情さえ芽生えたように描かれています。12月15日には彼はシュペー号戦死者36名の葬儀を市郊外の墓地で行っています。その中で,参列者のドイツ人すべてがナチス式の敬礼を行っているのに彼のみは旧海軍式の敬礼をしました。彼が最後にブエノスアイレスで自殺した時もハーケンクロイツ旗ではなくカイザー海軍旗に身を包んでいたことからも彼はナチスに対して好感を抱いていなかったと考えられます。かくして、17日14時に乗員900名は在泊中のドイツ商船タコマ号に移乗し、シュペー号には艦長ほか航海長、機関長、下士官など43人が残りました。大勢の市民が見守る中,18時15分、夏の夕日の中をシュペー号,15分後にタコマ号が出港しました。シュペー号はモンテビデオ西南西10〜20mls(約16.1〜32.2km)のウルグァイ領海内に停止,自爆処理を施した後に43名全員がアルゼンティンの小型タグボートに移乗しシュペー号から離れました。タコマ号に移った乗員も夕闇に紛れて同タグボートに移乗しブエノスアイレスに向かいました。20時54分,大爆発がおこり全艦に大火災発生,深さ12mの河底に沈みました。ラングスドルフ艦長はアルゼンティン大使宛に「シュペー号を自沈に至らしめた全責任は自分にある」という遺書を残しブエノスアイレスで19日夜にピストルで自殺しました。 ・シュペー号の装備
参考:〜 ・アルトマルク号事件 アルトマルク号はラ・プラタ沖海戦の際,英国艦艇の水兵300人の捕虜を船倉に収容しており,必死に洋上捜索を行っていた英海軍に運良く発見されなかったのですが,1940年2月16日になってノルウェーのフィヨルドにかくれていたのを英駆逐艦によって拿捕されました。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 08/9/15、14/7/6 |