★イギリス アルマダの海戦
1588
Almada
大航海物語★

スペイン無敵艦隊の来襲
イングランド南部リザード岬沖に、姿を現す


アルマダの来襲400年記念

アルマダの海戦 (1588/7/21〜30日) 英仏海峡から北海へ
 Almada
  スペイン無敵艦隊(フランスとの連合艦隊)対イギリス昆成艦隊


・両軍の兵力
ハワード・エッフィンガム率いるイギリス艦隊(197隻、兵員約1万5千名)
メディナ・シドニア率いるスペイン艦隊(130隻、兵員約3万名 ガレー船の奴隷等含む )

・イギリス艦隊の編成
総司令官ハワード率いる女王艦隊(34隻、旗艦はアーク・ロイヤル)、
ロンドン艦隊(30隻)、
ドレーク艦隊(34隻、旗艦はリベンジ)、
ヘンリー・セイモア艦隊(23隻)
トーマス・ハワード艦隊:武装商船、糧食船、義勇船、計76隻、旗艦ゴールデン・ライオン
・イギリス艦の特徴 イギリス艦隊最大の戦艦は、千百トンのトライアンフ号で、その他10隻足らずの大型戦艦は千トンから6百トンぐらいの大きさでした。イギリス艦は、スペイン艦に比べると龍骨が長く、船体は低く造られているので大洋を航海するのにより適しています。またこの特徴は戦闘中の操縦にも便利で、安定性もよいことから砲撃には有利でした。
アーク・ロイヤル、トライアンフ号
艦船105隻(後に増援と合流し、最終的には197隻)、兵員約15000名
総司令官 - チャールズ・ハワード・エフィンガム
副司令官 - フランシス・ドレーク(実質的な指揮官)

・スペインの無敵艦隊(アルマダ)
スペイン艦隊は、1571年にレパントの海戦でオスマン・トルコ艦隊を破り、1583年にはアゾレス諸島でフランス艦隊を壊滅させて、世界無敵を誇る艦隊となりました。そして1586年3月に「レパントの海戦」で活躍したサンタ・クルーズ候が、スペイン王フェリーペ2世に自信満々でイギリス侵攻計画を提出したのでした。
レカルデの乗艦サンタ・アナ号、サンサルバドル号、シドニアの乗艦サン・マルティン号
・スペイン艦隊(アルマダ)無敵艦隊
・フランス艦隊〜ビスケー艦隊、ガレアス船隊
・イタリア艦隊
艦船131隻、兵員約30000名
総司令官 - メディナ・シドニア公アロンソ・ペレス・デ・グスマン
副司令官 - フアン・マルティネス・レカルデ


7月21日
夜明けとともにイギリス艦隊がスペイン艦隊の右翼後方から接近し砲撃を加える。その後、イギリス艦隊はスペイン艦隊の左翼後方の部隊へ攻撃を加えた。この戦いでスペイン側の副司令官が座乗するサンタ・アナ号は戦闘不能となった(サンタ・アナ号は左翼後方に配置されていた)。 またこの戦いの最中、サンサルバドル号が火災事故のため艦隊から離脱した。サンサルバドル号は艦隊の財務長官と金庫を搭載していたため、当艦の離脱は艦隊の士気に悪影響を与えた。
7月23日(ポートランド沖の海戦)
7月27日
スペイン艦隊はカレー沖に停泊し、物資を補給しパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの部隊(3万5千名)と合流する予定だったが妨害を受ける。
7月28日(カレー沖の海戦)
深夜、イギリス艦隊により火船攻撃が行われた。8隻の船に可燃物を満載し風上からスペイン艦隊に突入させた。スペイン側も火船攻撃は想定していたようであるが、船の規模(100〜200t)と数は想定以上のものだったようである。この攻撃に混乱したスペイン艦隊は、バラバラに出撃し、またその多くが予備の錨などを失ったため、海岸に沿って北東へと漂流していく。
7月29日(グラベリン沖の海戦)
火船攻撃により三日月の陣形が崩れ、イギリス艦隊の射程に捕えられたスペイン軍は、集中砲火を浴び壊滅的な被害を受けた。夜明けからの戦闘で3隻を撃沈され2隻を大破させられた。戦闘が夜明けから日没まで続いたにもかかわらず、損害が少ないのは双方とも砲弾が残り少なくなっていたためである。
7月30日
シドニア公が撤退を決定し、スコットランドを迂回して帰還を試みる。イギリス軍はもはや上陸の可能性は低いと判断し、スコットランドのフォース湾沖で追撃を打ち切った。スペイン軍は慣れない航路と連日の過労から座礁・難破・病気によりさらなる犠牲者を出した。



1558年にイングランド王位についたエリザベス1世(1533〜1603)は、私掠船によるスペイン船への襲撃や、八十年戦争における新教徒勢力に対する支援などの政策を行ったため、スペインとの関係が悪化した。スペイン国王フェリペ2世(1527〜98)は当初イングランドとの直接対決には消極的で、レパントの海戦の英雄サンタ・クルーズ公が提案したアルマダ(無敵艦隊)によるイングランドへの武力侵攻の計画を、財政問題を理由に却下していた。しかし、1587年2月8日、エリザベス1世によってスコットランド女王メアリ・スチュアート(1542〜87)が幽閉されていたフォサリンゲイ城で処刑されると、ついにフェリペ2世はイングランドに対する武力侵攻を決意してアルマダの準備に取りかかった。  これに対してエリザベス1世は、なおもスペインとの直接対決を避けようとしていたが、フランシス・ドレイク(1540?〜1596)がスペインに先制攻撃をかける事を黙認した。
1587年4月、
30隻近い艦隊を率いたドレイクは、スペインのカディス港を襲撃して31隻の艦船を破壊し多くの軍需品を焼き払った。迎撃に出撃したスペインのガレー船12隻はイングランド艦隊のガレオン船にまったく歯が立たなかった。  当時スペイン海軍の主力はガレー船で、アルマダ構想でも40隻のガレー船の参加が予定されていたが、カディスにおける無惨な敗北の結果、大幅な計画の変更を余儀なくされた。さらに当初アルマダの総司令官に予定されていたサンタ・クルーズ公が1588年2月に死去したため、代わって海戦には素人のアンダルシア総督メディナ・シドニア公(1550〜1619)が総司令官に任命された。
1588年4月、
リスボンにガレオン船等大型船65隻、ウルカ(運送船)25隻、小型船32隻、ガレアス船4隻、ガレー船4隻、船員8500人、兵士1万8973人からな成るスペイン艦隊が集結した。フェリペ2世の立てた作戦は、艦隊はまずネーデルランドに向かい、そこに駐留しているパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545〜92)率いる歩兵3万、軽騎兵500の精鋭部隊と合流してイングランドに侵攻するというものであった。そのためシドニア公にはフェリペ2世から、パルマ公と合流するまではイングランド艦隊と積極的に戦わないようにとの指示が与えられた。
5月18日、
リスボンを出港したスペイン艦隊は補給のために入港したラ・コルニアを6月21日に後にし、悪天候のためにガレー船4隻とサンタ・アナ号を失いながらも、
7月19日、
イングランド南西端のリザート岬沖に到着する。シドニア公はここで戦闘力の無い輸送艦を守るために三日月形の陣形に艦隊を編成し直した。  対するエリザベス1世は、ドレイクの提言に従ってチャールズ・ハワード・エフィンガム卿(1536〜1624)麾下のイングランド艦隊105隻をプリマス港に集結させていた。
7月20日、
プリマス港を出港したイングランド艦隊は、
7月21日に
プリマス沖でスペイン艦隊を補足して攻撃を開始した。戦闘は操船術に優り有利な風上に位置するイングランド艦隊が優位の内に推移したが、スペイン艦隊の三日月形の陣形を崩す事が出来ず、決定的な打撃を与える事ができなかった。この海戦でスペイン艦隊は、サン・サルバドール号を火薬庫の爆発炎上で失い、さらに僚艦との衝突で航行不能の状態になったヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号がドレイクによって7月22日に拿捕された。  東進するスペイン艦隊は、
7月23日と
25日にも、ポートランド沖とワイト島沖でイングランド艦隊と戦闘を行った。しかし、シドニア公はパルマ公との合流を優先して堅陣を崩さず、積極的に攻勢に出ようとはしなかった。また、イングランド艦隊のカルヴァリン砲はスペイン艦隊のカノン砲よりも射程距離が長く速射が利いたが、砲弾が軽く破壊力が小さいために相手に大きな損害を与える事はできなかった。
7月27日、
フランスのカレー沖に停泊したスペイン艦隊は、通報船を送りパルマ公の合流を待った。しかし、パルマ公側の準備はシドニア公の期待する程には進んでおらず、オランダの海乞食(シー・ベガーズ)が監視する中シドニア公と合流する事は不可能だった。一方、ダンケルクに停泊していたヘンリー・シーモア卿の艦隊と合流して総数140隻になったイングランド艦隊は軍議を開き、カレー港に停泊中のスペイン艦隊に対して「火船戦術」を用いる事を決定した。29日になったばかりの深夜、200トンから90トンまでの火船8隻が潮流に乗ってカレー港に突入すると、スペイン艦隊はパニックを起こし多く艦船が錨索を切断して四散する。  夜明けと共にイングランド艦隊は、グラヴリーヌ沖を潮流に乗って漂流するスペイン艦隊に対して攻撃を開始した。スペイン艦隊はシドニア公の旗艦サン・マルティン号を中心に反撃を試みたが、やがて砲弾を打尽くしてしまう。そのためイングランド艦隊はこれまでの海戦とは違い、反撃の出来なくなったスペイン艦隊に対して近距離から砲撃を与える事ができた。夕刻まで続いた海戦で、スペイン艦隊はガレアス船サン・ロレンソ号、ガレオン船サン・マテオ号、サン・フェリペ号、マリア・フアン号を失い、他の艦船も大きな被害を受けた。
7月30日、
北海方面に脱出したシドニア公は、イングランド侵攻を断念してスペインへの帰還を決断したが、イングランド艦隊に追尾されているためドーヴァー海峡に引き返すことは出来ず、北上してスコットランド沖を廻る航路をとることにした。しかし、この航路は当時のスペインの航海士にとって経験の無い未知の航路であり、多くの艦船が途中のスコットランド沖やアイルランド沖で難破・座礁した。シドニア公は食料をやりくりしながら、
9月12日にサンタデルに帰投したものの、半数近い艦船が再びスペインに帰還する事が出来ず2万人以上の人命が失われた。

フェリペ2世はその後、1596年と1597年にもアルマダを編成して艦隊をイングランドに派遣したが、いずれも失敗に終わっている。



・戦闘経過、7月21日の戦闘
イギリス艦隊は、真夜中の午前1時にスペイン艦隊を発見するとすぐに風上側に進出します。そして日の出とともにスペイン艦隊の右翼(イタリア隊)に後方から接近して砲撃を開始しました。スペイン艦隊のイタリア隊を追い越したイギリス艦隊は、反転すると今度はスペイン艦隊のビスケー隊を前方から攻撃し始めます。この猛攻撃にビスケー隊は混乱し、副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号とグラン・グリン号の2隻だけが奮闘しますが、イギリス艦隊のドレーク隊に包囲されて猛砲撃を浴びせかけられました。これを見たスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアが、副司令官を救うために駆けつけますが、既にレカルデの乗艦サンタ・アナ号は戦闘能力を失っていました。またこの戦闘では、スペイン艦隊の財務長官と金庫を乗せていたサンサルバドル号が、事故のため爆発炎上して艦隊から離脱せざるをえなくなります。スペイン艦隊がイギリス艦隊と初めて戦って認識したことは、イギリス艦は速力が早く、操縦が容易な上に砲手が極めて優秀なことでした。この事実はスペイン艦隊に大きな衝撃を与え、サンサルバドル号の放棄はスペイン兵の士気を著しく低下させました。

・7/23の戦闘 早朝、風上側に立ったスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアは、商船5隻を従えたイギリス艦トライアンフ号が難航しているのを発見し、これをガレアス船隊に攻撃させました。イギリス艦隊総司令官ハワード自らがトライアンフ号の救援に向かうと、メディア・シドニア率いる16隻のスペインのガレオン船がこれを妨害しようと進み出ます。
この時、シドニアはレカルデ副司令官の乗艦サンタ・アナ号がまたも包囲攻撃を受けているのを発見したため、予定を変更してこれの救援に向かいますが、シドニアの乗艦サン・マルティン号も50隻近いイギリス艦に包囲され激しい砲撃を受けるはめになってしまいました。1時間ほどの激しい戦闘の後、スペインのオケンド率いるキッパズコア隊が来援してやっとイギリス艦隊の包囲を解きます。この戦闘においてもイギリス艦が速力で優位であり、たとえスペイン艦が風上側にいたとしてもイギリス艦は容易に風上へ移動できることが判明しました。またイギリス艦の大砲は大きくて射程も長く、砲手はスペイン艦が1発射つ間に3発も射てました。このようなことからスペイン艦隊は陣形を整えてもっぱら守りに徹し、機動戦は避けるべきであることに気づきます。スペイン艦隊が陣形を崩すことなく全艦が統一行動をとれば、接近して攻撃しようとするイギリス艦は多数のスペイン艦から集中砲撃を受けてしまいます。イギリス艦の大砲が射程で有利であっても遠距離射撃では敵艦に致命的な打撃を与えることは出来ません。そこでイギリス艦隊の戦術としては、スペイン艦隊を先に進ませて後方からこれを襲い、敵艦を1隻ずつ脱落させていく方法しかありませんでした。

・7月24日 両艦隊とも補給のため戦闘行動は出来ませんでした。

・7月25日 スペイン艦隊副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号が難航しているところをイギリス艦隊のアーク・ロイヤル号とゴールデン・ライオン号が襲いますが、スペイン艦隊は3隻のガレアス船を使ってイギリス艦を撃退することに成功します。

・7月27日 夜、カレー沖にスペイン艦隊が停泊しました。スペイン艦隊はここで食料と砲弾と弾薬を補給し、パルマ公の率いるイギリス侵攻軍(3万5千名)と合流する予定でしたが、オランダの封鎖艦隊によって妨害されてしまいます。オランダ艦隊は、パルマ公の輸送船団をブルージュの海岸沖で常時見張っており、イギリス侵攻軍の兵士たちが乗船しようとすればすぐにでも砲撃する構えを見せていたのでした。

・7月28日 戦闘「カレー沖の海戦」 停泊中のスペイン艦隊に火船攻撃を決行することにしたイギリス艦隊は、百トンから2百トンぐらいの船を8隻選び出して、それらに燃えやすいものを満載します。真夜中を過ぎたころ、8隻の火船はスペイン艦隊に向けて放たれました。風と流れに乗った8隻は、極めて早い速度で敵艦隊に近づきます。スペイン艦隊は、イギリス艦隊による火船攻撃を予想していましたが、これほどの大きな船がまるで艦隊のように襲いかかってこようとは思ってもいませんでした。スペイン艦隊の総司令官メディア・シドニアは、錨を捨ててあわただしく出撃しなければなりません。火船を避けるためバラバラに出撃したスペイン艦隊は、多くの船が予備の錨をも失い、海岸に沿って北東方向に漂流して行きました。 7月29日 戦闘「グラベリン沖の海戦」

・7月29日 夜明け、スペイン艦隊の陣形は完全に崩れていました。イギリス艦隊は全力で敵艦隊の追撃を開始します。この戦闘でスペインのガレアス船隊司令官モンガータは戦死し、スペイン艦隊の中で最強最大のサン・ロレンソ号は舵やメインマストを失って座礁してしまいました。午前9時頃から午後6時頃まで続いた砲撃戦でスペイン艦の3隻が撃沈され、2隻が行動不能になりました。戦闘時間が長い割に損害が少ないのは、当時の両艦隊に砲弾が残り少なく発射間隔が大きかったという事情があります。30日の朝までに4隻のスペイン艦が失われました。1隻は浸水で沈没、3隻が強風のためにゼーラントの海岸に押し流されたのです。スペインの無敵艦隊は、今や17隻を失って、すっかり戦闘意欲を無くしていました。火船攻撃に使った8隻の他には1隻の損失も無いイギリス艦隊は敵艦隊の追撃を続行しますが、北緯56度付近までくると、もはやスペイン艦隊がイギリスに上陸する可能性は無いとして引き揚げることにします。イギリス艦隊の追撃を振り切ったスペイン艦隊には、新たな危機が迫っていました。補給不足から食料と真水が欠乏し、その上、嵐と疫病にも襲われたのです。堅いパンは腐ってカビだらけ、塩づけの肉と魚はありますが、それを食べれば喉が渇きます。しかし多くの水樽が破損していたため真水がほとんど残っていませんでした。 9月12日頃 スペイン艦隊は帰港しますが、船の数は66隻に減っています。なんと50隻近くの船が帰りの航海で失われてしまったのでした。うち35隻の運命がまったくの不明で、ほとんどが難破したと思われます。わかっているスペイン艦隊の損害は、溺死者は約8千名、壊血病やチフスなどによる病死者が約1万名にもなりました。難破の原因の多くは嵐のせいですが、乗員の多くが病気と過労で倒れていたことや、水を求めて無理な着岸を試みたということも難破の大きな原因となっています。 無敵艦隊、Armada invencible とは 1588年、スペイン国王フェリペ2世がイングランド制圧のために派遣した艦隊に与えた呼称です。(当時のイングランド女王はエリザベス1世)、艦艇131隻 1000tを越える大艦をそろえていました。兵員は2万4000 陸兵が約2/3を占め、司令官は当初サンタ・クルス侯が予定されていましたが、候の死去でメディナ・シドニア公が起用されました。アルマダの主な航海は 5月 リスボンを出発(フェリペ2世がポルトガル王を兼ねていた)
7月29日 イングランドの沖に到達
7月30日 プリマス沖の海戦 8月8日 グレイブラインの海戦 ハワード、ドレーク、ホーキンズらの率いるイギリス艦隊(長射程砲搭載の小艦艇197隻)とのドーバー海峡での消耗戦に惨敗。暴風のためにスコットランド北方を迂回してスペインに帰還。スペインに帰還できた艦船は半数ほどで、兵員も多数を失った。この敗北で、スペインは国際政治における発言権を弱め、イングランドの地位とエリザベスの支配は不動のものとなった。 ・チャールズ・ハワード・エッフィンガム、(1536年〜1624年) イングランド貴族の最高ともいえるノフォーク公と同じ血筋であるハワード・エッフインガムは、女王エリザベス1世とも親戚の関係でした。1585年に海軍最高司令官に任命されましたが、当時のイングランドにおけるこの役職は、首相と海軍大臣と提督を併せたようなもので、実際の海戦の経験や能力については考慮されなかったのです。





・戦闘経過、
7月21日の戦闘
イギリス艦隊は、真夜中の午前1時にスペイン艦隊を発見するとすぐに風上側に進出します。そして日の出とともにスペイン艦隊の右翼(イタリア隊)に後方から接近して砲撃を開始しました。スペイン艦隊のイタリア隊を追い越したイギリス艦隊は、反転すると今度はスペイン艦隊のビスケー隊を前方から攻撃し始めます。この猛攻撃にビスケー隊は混乱し、副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号とグラン・グリン号の2隻だけが奮闘しますが、イギリス艦隊のドレーク隊に包囲されて猛砲撃を浴びせかけられました。これを見たスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアが、副司令官を救うために駆けつけますが、既にレカルデの乗艦サンタ・アナ号は戦闘能力を失っていました。またこの戦闘では、スペイン艦隊の財務長官と金庫を乗せていたサンサルバドル号が、事故のため爆発炎上して艦隊から離脱せざるをえなくなります。スペイン艦隊がイギリス艦隊と初めて戦って認識したことは、イギリス艦は速力が早く、操縦が容易な上に砲手が極めて優秀なことでした。この事実はスペイン艦隊に大きな衝撃を与え、サンサルバドル号の放棄はスペイン兵の士気を著しく低下させました。

・7月23日の戦闘
早朝、風上側に立ったスペイン艦隊総司令官メディア・シドニアは、商船5隻を従えたイギリス艦トライアンフ号が難航しているのを発見し、これをガレアス船隊に攻撃させました。イギリス艦隊総司令官ハワード自らがトライアンフ号の救援に向かうと、メディア・シドニア率いる16隻のスペインのガレオン船がこれを妨害しようと進み出ます。この時、シドニアはレカルデ副司令官の乗艦サンタ・アナ号がまたも包囲攻撃を受けているのを発見したため、予定を変更してこれの救援に向かいますが、シドニアの乗艦サン・マルティン号も50隻近いイギリス艦に包囲され激しい砲撃を受けるはめになってしまいました。1時間ほどの激しい戦闘の後、スペインのオケンド率いるキッパズコア隊が来援してやっとイギリス艦隊の包囲を解きます。この戦闘においてもイギリス艦が速力で優位であり、たとえスペイン艦が風上側にいたとしてもイギリス艦は容易に風上へ移動できることが判明しました。またイギリス艦の大砲は大きくて射程も長く、砲手はスペイン艦が1発射つ間に3発も射てました。このようなことからスペイン艦隊は陣形を整えてもっぱら守りに徹し、機動戦は避けるべきであることに気づきます。スペイン艦隊が陣形を崩すことなく全艦が統一行動をとれば、接近して攻撃しようとするイギリス艦は多数のスペイン艦から集中砲撃を受けてしまいます。イギリス艦の大砲が射程で有利であっても遠距離射撃では敵艦に致命的な打撃を与えることは出来ません。そこでイギリス艦隊の戦術としては、スペイン艦隊を先に進ませて後方からこれを襲い、敵艦を1隻ずつ脱落させていく方法しかありませんでした。

・7月24日
両艦隊とも補給のため戦闘行動は出来ませんでした。

・7月25日
スペイン艦隊副司令官レカルデの乗艦サンタ・アナ号が難航しているところをイギリス艦隊のアーク・ロイヤル号とゴールデン・ライオン号が襲いますが、スペイン艦隊は3隻のガレアス船を使ってイギリス艦を撃退することに成功します。

7月27日
夜、カレー沖にスペイン艦隊が停泊しました。スペイン艦隊はここで食料と砲弾と弾薬を補給し、パルマ公の率いるイギリス侵攻軍(3万5千名)と合流する予定でしたが、オランダの封鎖艦隊によって妨害されてしまいます。オランダ艦隊は、パルマ公の輸送船団をブルージュの海岸沖で常時見張っており、イギリス侵攻軍の兵士たちが乗船しようとすればすぐにでも砲撃する構えを見せていたのでした。

7月28日
戦闘「カレー沖の海戦」
停泊中のスペイン艦隊に火船攻撃を決行することにしたイギリス艦隊は、百トンから2百トンぐらいの船を8隻選び出して、それらに燃えやすいものを満載します。真夜中を過ぎたころ、8隻の火船はスペイン艦隊に向けて放たれました。風と流れに乗った8隻は、極めて早い速度で敵艦隊に近づきます。スペイン艦隊は、イギリス艦隊による火船攻撃を予想していましたが、これほどの大きな船がまるで艦隊のように襲いかかってこようとは思ってもいませんでした。スペイン艦隊の総司令官メディア・シドニアは、錨を捨ててあわただしく出撃しなければなりません。火船を避けるためバラバラに出撃したスペイン艦隊は、多くの船が予備の錨をも失い、海岸に沿って北東方向に漂流して行きました。


7月29日
戦闘「グラベリン沖の海戦」


7月29日
夜明け、スペイン艦隊の陣形は完全に崩れていました。イギリス艦隊は全力で敵艦隊の追撃を開始します。この戦闘でスペインのガレアス船隊司令官モンガータは戦死し、スペイン艦隊の中で最強最大のサン・ロレンソ号は舵やメインマストを失って座礁してしまいました。午前9時頃から午後6時頃まで続いた砲撃戦でスペイン艦の3隻が撃沈され、2隻が行動不能になりました。戦闘時間が長い割に損害が少ないのは、当時の両艦隊に砲弾が残り少なく発射間隔が大きかったという事情があります。30日の朝までに4隻のスペイン艦が失われました。1隻は浸水で沈没、3隻が強風のためにゼーラントの海岸に押し流されたのです。スペインの無敵艦隊は、今や17隻を失って、すっかり戦闘意欲を無くしていました。火船攻撃に使った8隻の他には1隻の損失も無いイギリス艦隊は敵艦隊の追撃を続行しますが、北緯56度付近までくると、もはやスペイン艦隊がイギリスに上陸する可能性は無いとして引き揚げることにします。イギリス艦隊の追撃を振り切ったスペイン艦隊には、新たな危機が迫っていました。補給不足から食料と真水が欠乏し、その上、嵐と疫病にも襲われたのです。堅いパンは腐ってカビだらけ、塩づけの肉と魚はありますが、それを食べれば喉が渇きます。しかし多くの水樽が破損していたため真水がほとんど残っていませんでした。


9月12日頃
スペイン艦隊は帰港しますが、船の数は66隻に減っています。なんと50隻近くの船が帰りの航海で失われてしまったのでした。うち35隻の運命がまったくの不明で、ほとんどが難破したと思われます。わかっているスペイン艦隊の損害は、溺死者は約8千名、壊血病やチフスなどによる病死者が約1万名にもなりました。難破の原因の多くは嵐のせいですが、乗員の多くが病気と過労で倒れていたことや、水を求めて無理な着岸を試みたということも難破の大きな原因となっています。

無敵艦隊、Armada invencible とは
1588年、スペイン国王フェリペ2世がイングランド制圧のために派遣した艦隊に与えた呼称です。(当時のイングランド女王はエリザベス1世)、艦艇131隻 1000tを越える大艦をそろえていました。兵員は2万4000 陸兵が約2/3を占め、司令官は当初サンタ・クルス侯が予定されていましたが、候の死去でメディナ・シドニア公が起用されました。アルマダの主な航海は
5月 リスボンを出発(フェリペ2世がポルトガル王を兼ねていた)
7月29日 イングランドの沖に到達
7月30日 プリマス沖の海戦
8月8日 グレイブラインの海戦
ハワード、ドレーク、ホーキンズらの率いるイギリス艦隊(長射程砲搭載の小艦艇197隻)とのドーバー海峡での消耗戦に惨敗。暴風のためにスコットランド北方を迂回してスペインに帰還。スペインに帰還できた艦船は半数ほどで、兵員も多数を失った。この敗北で、スペインは国際政治における発言権を弱め、イングランドの地位とエリザベスの支配は不動のものとなった。

・チャールズ・ハワード・エッフィンガム、(1536年〜1624年)
イングランド貴族の最高ともいえるノフォーク公と同じ血筋であるハワード・エッフインガムは、女王エリザベス1世とも親戚の関係でした。1585年に海軍最高司令官に任命されましたが、当時のイングランドにおけるこの役職は、首相と海軍大臣と提督を併せたようなもので、実際の海戦の経験や能力については考慮されなかったのです。1588年の「アルマダ海戦」では、航海経験が豊富で指揮能力の優れたフランシス・ドレークを作戦本部長にして、ハワード自らは最高司令官として戦いに臨みました。すぐれた英知と才覚を持つハワードは善意の紳士でもあり、スペイン艦隊と戦った兵士や水夫たちに国庫の貧しいイギリス政府から十分な給料が払われないことがわかると、自らの財産を使って彼等に支払ってやったのでした。

・メディナ・シドニア
穏やかな性格で野心など全くないシドニアが、スペイン艦隊の最高司令官に選ばれた理由は、単に彼がスペインの大貴族として社会的地位が高かったからでした。とうてい司令官の器ではないシドニアは、スペイン王フェリペ2世に自らその旨を書き送ります。「私にはこの仕事はまったく理解できませんし、また、それについて何の知識ももっておりません。」このように自分の無力を認めるシドニアを、スペイン王は無理やり最高司令官に任命し、部下から全く信頼されていないフロレス・デ・バルデスを参謀本部長に選びました。
1588年7月、イングランド艦隊との戦闘で苦境に立っていたシドニアは、彼の旗艦の側を通過していく船の甲板上に勇敢な指揮官オケンドを見つけると思わず叫んでしまいます「これから我々はどうしよう?もう何もかもおしまいだ!」。これは最高司令官が言うべき言葉ではなく、あきれたオケンドは次のように答えました。「私は最後まで戦いますよ、男らしく死にます。」
結局、シドニアがスペインにできた唯一の貢献は、5百万枚のマラベディー銅貨の寄付だけでした。

・フランシス・ドレーク、(1545年〜1596年)
Francis Drak。1543年生?、1596年没。イギリス出身、イギリスの航海者・提督。
1570年〜1572年 エリザベス1世の特許のもとに私掠船を率い、西インドのスペイン領で海賊行為を行う。
1577年 女王の援助を得て、5隻を率いて世界周航に出発
1580年 帰国、イギリス人初の世界周航に成功 ナイトの称号を得る
1588年 スペイン無敵艦隊を撃破した時のイギリス艦隊副提督
1567年にホーキングについてメキシコ湾に遠征、奴隷貿易で成功したドレークは、しだいにスペインの船や植民地を襲う海賊として有名になります。イングランドとスペインは表面的には友好国でしたが、エリザベス女王はドレークなどのスペイン相手の海賊を黙認していたのでした。
1577年、ドレークは女王に謁見すると「スペイン本国を攻撃することはできませんが、植民地を襲ってスペイン王フェリペ2世を苦しめることはできます。」と述べ、それに応えて女王は言いました。「襲撃に失敗しても、イングランドは政治的な立場から貴方を見捨てるほかありません。」ドレークの艦隊はその年の11月にプリマスを出航して、翌年にマゼラン海峡を通過するとチリやペルー沿岸のスペイン植民地を略奪してまわり、遂にスペイン王の財宝を満載した宝船カカフエゴ号を捕獲しました。グアテマラの港グアタルコを5日間に渡って荒しまくり、メキシコの海賊討伐隊を簡単にかわすと太平洋を横断して1580年に帰港します。スペインから海賊ドレークを処罰するよう迫られていたエリザベス女王は、ドレークの乗艦ゴールデン・ハインド号に乗り込み、同行のフランス使節に剣を渡すと、ひざまずいたドレークの肩にその剣を当てさせ「立ちなさい。サー・フランシス・ドレーク」と呼びかけ、ナイトの称号を与えました。ゴールデン・ハインド号によって女王には30万ポンドが手に入ります。この額はイングランドの国庫歳入よりも多かったのでした。
1581年にはプリマスの市長になったドレークですが、スペインとの国交悪化で再びスペイン領を攻撃します。1587年、カディス湾でスペイン艦隊を襲撃して、翌年の「アルマダ海戦」ではイングランド艦隊の実質的な指揮をとり、スペイン艦隊を壊滅させました。1594年からは西インド諸島を襲撃しますが、スペイン軍の守備が固いため思うようにいかず、1596年、何の成果もあげられないうちにドレークは赤痢で倒れてしまいます。最後は武人らしく死にたいと言うドレークは、病床に鎧を持ってこさせて、それを着ようとするなどの錯乱状態に陥ったまま息をひきとりました。

・サンサルバドル号
スペインの無敵艦隊(アルマダ)の所有する金と財務長官を乗せていた大事な船でした。この船が自爆したのは、司令官シドニアによると「不運な事故」ですが、主計官カルデロンなどは事の真相を次のように伝えています。サンサルバドル号の砲兵の1人であるドイツ(フランドル?)人が、何らかの理由で船長の怒りを買い、不当なムチ打ち刑に処せられてしまいます。復讐の炎に燃えた彼は船倉に降りると、表向きは大砲から湿った火薬を吹き飛ばすという目的で、火のついた松明を火薬樽のなかに投げ込むと自分は海に飛び込んで逃げました。こうして発生した爆発によって、サンサルバドル号の船尾と2つの上甲板が吹っ飛んでしまい、2百名もの乗組員が死亡したのです。

参考HP:〜
  ・アルマダの海戦地図

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