大航海物語
アラモの戦い
1836/2/23〜1836/3/6


参考資料
USA
デヴィー・クロケット

USA  1967/8/17  発行
サム・ヒューストン

USA 1964/1/10 発行

アラモの戦い (1836/2/23〜1836/3/6)
 Battle of the Alamo
アラモの戦いはテキサス独立戦争中にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テクシャン反乱軍)の間で行われた13日間戦闘で、テキサス側の拠点とされ戦闘の舞台となったアラモ伝道所の現在はテキサス州サンアントニオ中心街の一角に遺跡があります。

アラモを守備することになっていた指揮官はのはジェームズ・ボウイ大佐で、騎兵隊中佐に就任したばかりの若きウィリアム・トラヴィスも
アラモ・スペイン砦

USA  1998/7/11  発行
1836/1月に州政府から30人の志願兵と共に派遣され、2/3にサン・アントニオに到着、正式な指揮官に任じられ、テクシャン軍を指揮。ボウイナイフで知られるジェームズ・ボウイ大佐の名声などで、正規の軍人でない志願兵も砦を守るために集まり、ボウイ大佐とトラヴィス中佐は作戦と指揮を巡って度々口論するも、ボウイ大佐が2/27に結核のため病床につくと、指揮権をトラヴィス中佐に全権委任。アラモには約200人程度の軍勢しかいなかったため、トラヴィス中佐は成立したてのテキサス暫定政府に再三援軍を求めたが、テキサス軍サミュエル・ヒューストン将軍は兵の召集を待っていたために援軍の派遣は志願してきた30人程度だけでした。1836/2/6にデヴィー・クロケットはアラモの守備のためサンアントニオに到着。2/8に12人の「テネシー志願兵」はアラモに到着。ニューオリンズからは「ニューオリンズ・グレイズ」という集団が歩兵として戦うためにやって来ました。グレイズを含む2つの中隊が12月にベハルの籠城戦に参加。メキシコと戦う約束を残し、グレイズの大部分はマタモロスへ都市を略奪する遠征のためにサン・アントニオ・デ・ベハルを去りました。しかし約24人はアラモに残留。3/1の午前1時頃に32人のテクシャンがゴンザレスの町からジョージ・キンベル大尉とジョン・W・スミスと共に到着し、メキシコ人の戦線をかいくぐってアラモの守備隊に合流。彼らはトラヴィスの援軍要請に対する唯一の反応でした。

2/23から開始されたアラモの戦いでは指揮官ウィリアム・トラヴィス大佐のもと、クロケットは教会前面の木柵の防御を担当していました。しかし、ジェームズ・ボウイの病状悪化や援軍が来なかったこともあり、メキシコ軍の攻城戦は科学的、職業的でナポレオン流に指揮されていて、包囲と最後の襲撃をしてきたメキシコ兵は1,400人〜1,600人だったので、衆寡敵せず、3/6にアラモは陥落しました。クロケットはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられ、処刑されました。

・デイヴィッド・クロケット (1786/8/16〜1836/3/6)
 David crockett

  別名:デヴィー・クロケット (Davy Crockett)
デヴィー・クロケットはアメリカ合衆国の軍人、政治家。テキサス独立を支持し、アラモの戦いで玉砕。アメリカの国民的英雄で、クロケットはテネシー州グリーンコロニーで9人兄弟の第5子として生まれ、十分な教育は受けられませんでした。1813年には州の民兵として後の大統領アンドリュー・ジャクソンの下で原住民討伐に従軍。1826、28、32年には合衆国下院議員にテネシー州から当選(1830年は落選)し、不法滞在者の権利獲得に尽力。1833年には自伝も出版し、一躍有名人となるも、1835年には落選。クロケットは下院議員時代に親交を深め Davy Crokett
たサミュエル・ヒューストンにも影響され、1836/1/14にはテキサス暫定政府との書類に調印してテキサス革命に正式に参加、2/6にアラモの守備のためサンアントニオに到着。2/23から開始されたアラモの戦いでは指揮官ウィリアム・トラヴィス大佐のもと、教会前面の木柵の防御を担当。しかし、ジェームズ・ボウイの病状悪化や援軍が来なかったこともあり、3/6にアラモは陥落。クロケットはメキシコ大統領サンタ・アナに捕らえられ、処刑されました。当時から破天荒な西部開拓地の人気者というイメージが存在し、今でも語り継がれています。動物の皮から作られるスキン・キャップ(皮の帽子)を好んで被っていたため「クロケット帽」という帽子が有。後ろから飾りのシッポが下がっている帽子。3才で熊退治をしたとする伝説は歌にもなり、アメリカでは有名。切手の背景に登場しているのはスクラブ松(Scrub Pines)でヴァージニア松(Virginia Pine)とも呼ばれるありふれた木で、クリスマスツリーにも使用されるとか。。。

・サミュエル・ヒューストン (1793/3/2〜1863/7/26)
 Samuel Houston
サム・ヒューストン将軍は、19世紀アメリカの軍人、政治家。テキサス州ヒューストンの名の由来となりました。バージニア州ロックブリッジ郡生れで、1818年に軍を退役したのち、弁護士になりました。1823年からアメリカ合衆国の下院議員、1827年からテネシー州知事。1835年からのテキサス独立戦争では、テキサス軍を率いてメキシコと戦い、1836/4月にはサンタ・アナ将軍を捕らえて独立を認めさせました。同年成立したテキサス共和国の初代大統領に選ばれました。1838年には一旦落選するも、1841年には再び大統領の座に就任。1845年テキサスがアメリカに併合されると、州選出の上院議員を13年間つとめ、1859年にはテキサス州知事になりました。1861年、南北戦争の勃発に先立ち、テキサス州のアメリカ合衆国離脱及び南部11州からなるアメリカ連合国(南軍)への加盟に反対し、知事の座を退き、南北戦争の終わりまでハンツビルに退き、そこで亡くなりました。
Sam Houston

・南軍の南部11州:〜
州名 合衆国脱退 南軍連合加盟 合衆国再加入
・サウスカロライナ 1860/12/20 1861/2/4 1868/7/9
・ミシシッピ 1861/1/9 1861/2/4 1870/2/23
・フロリダ 1861/1/10 1861/2/4 1868/6/25
・アラバマ 1861/1/11 1861/2/4 1868/7/14
・ジョージア 1861/1/19 1861/2/4 1870/7/15
・ルイジアナ 1861/1/26 1861/2/4 1868/6/25
・テキサス 1861/2/1 1861/3/2 1870/3/30
・バージニア 1861/4/17 1861/5/7 1870/1/26
・アーカンソー 1861/5/6 18615/18 1868/6/22
・テネシー 1861/5/6 1861/5/16 1868/7/24
・ノースカロライナ 1861/5/21 1861/5/16 1868/7/4
※南北戦争(American Civil War, 1861-1865)

・参考地図HP:〜
 テキサス共和国の領土
 現在のテキサス州の地図
 南軍連合国の地図
 南軍連合国の場所地図

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。     09/8/8

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