切手で綴る 大航海の物語
日本編の参考資料として



天地丸
1630〜1862
日本郵便 NIPPON
日本の古地図

名古屋輸入博覧会記念
昭和65年 1985/4/5  発行
天地丸

”第二次船シリーズ”
昭和50年1975/9/25 発行

御座船・天地丸・寛永7年(1630)〜幕末(1862)
天地丸は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。大きさは500石積、76挺立(ちょうだ)で、船体、総矢倉(そうやぐら)、屋形(やかた)などの全てが朱の漆塗り、随所に金銅(こんどう)の金具をつけて豪華な装飾が施され、将軍の御座船にふさわしい華麗な外観をしていました。こうして、御座船は泰平の世の中で次第に軍船的要素を失ってゆき、ベリー艦隊の来航などで訪れた幕末の海防の危機に際しては、もはやまったく用をなさない存在となってしまいました。そして文久2年(1862)、幕府が「天地丸」以下の関船、小早などを廃船としたのを契期に、関船の永い歴史に終止符が打たれました。

遣明船の大きさ(推定)
・積載量 500石(約75屯)
・帆 柱 無し、76挺立
・船構造 豪華絢爛の屋形船
・乗船者 約100人

江戸時代の「将軍乗船図」に、御召”小早”三拾挺立「小麒麟丸」、”御鳥船”二挺立 2隻、引”御船”無屋形二拾挺立 4隻(天地丸を曳航)、御召”御関船”七拾六挺立「天地丸」、右”伝馬船”拾二挺立、御供”小早”三拾挺立「橘丸」、御供”小早”三拾二挺立「住吉丸」と11隻の船団が描かれています。

慶長14年(1609)、江戸幕府は諸大名の水軍力削減のために500石(こく)積以上の大型船の所有を禁止し、西国大名が持っていた強力な軍船安宅船(あたけぶね)のすべてを没収しました。そこで、諸大名は安宅船に代わる関船(せきぶね)を制限いっぱいまでの大きさで建造し、船によってはこれを鮮やかな漆塗(うるしぬ)りで仕上げ、さまざまな金具で装飾した豪華な屋形を設けて御座船とし、参勤交代(さんきんこうたい)などに用いて大名の権威を誇示しました。








弁財船
江戸時代中期〜明治時代初期
日本郵便 NIPPON
日本の古地図

名古屋輸入博覧会記念
東海道53次 ”桑名” 広重作

”国際文通週間 浮世絵 シリーズ”
”弁財船”

”第三次船シリーズ”
昭和65年 1985/4/5 発行 昭和34年 1959/10/4  発行 昭和51年 1976/3/11  発行

弁財船(千石船) 江戸時代中期〜明治時代初期。
江戸時代の中ごろには経済が活発化し航路が開発され、物流が進み船舶の大型化がはかられました。積荷を千石積める船を「千石船」と呼んでいました。

弁財船の大きさ(推定)
・長 さ 約20m
・重 さ 約100屯
・積載量 1000石(約150屯)
・帆 柱 1本マスト、縦帆
・船構造 木造、帆走のみ

・北前船(きたまえぶね)や;〜江戸時代の回船の一つで、江戸時代中期から明治時代初期にかけて、北海道の海産物や北国の米などを日本海・瀬戸内海回りで上方(かみがた)へ、上方の酒・塩などを北国に運搬しました。
・その他に、桧垣回船(ひがきかいせん、積荷を山積みできるように舷側が高い)、樽回船(たるかいせん、酒樽を積むため船倉が深い)などと呼ばれる廻船問屋がありました。1769年「淡路島」生まれの「高田屋嘉兵衛」は兵庫の津の西出町で店を開き、函館にも店を開いて北前船による航路をエトロフ方面に開拓してロシアとの交易などもしたことでも知られています。米を千石積めるので「千石船」とも呼ばれた荷船でした。


帆走だけでしたので港で”風待ち”をしながら、沿岸航法をしていましたが、
弁才船の逆風帆走性能は、横風帆走を意味する「開(ひら)き走り」や「間切(まぎ)り走り」といわれ、ジャンク(中国船)やスクーナ―型などの縦帆船(ジューハンセン)に比れば劣りますが、バーク型などの横帆船(オウハンセン)より優れていました。弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期ともなると、帆の扱いやすさともあいまって風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜けるのが常で、足掛け4日も間切り走りを続けた例もありました。









昌平丸
1854〜1870
日本郵便 NIPPON
日本の古地図

名古屋輸入博覧会記念
昌平丸

”第三次船シリーズ”
昭和65年 1985/4/5  発行 昭和51年 1976/3/11  発行


昌平丸(薩摩藩) 嘉永7年(1854〜1870)
薩摩藩が建造した西洋式軍艦。1854(嘉永七)年12月12日完成。
はじめ昇平丸、幕府に献納されて昌平丸と改名。

昌平丸の大きさ(推定)
・長 さ 約31m
・全 幅 約7m
・重 さ 約370屯
・帆 柱 3本マスト
・船構造 木造、帆走のみ

日本近海にはペリー来航以前からロシア船の南下事件などがあり、1853(嘉永六)年ペリーが来航して開国を要求したため、幕府も諸藩も海防策として大船建造の必要に迫られた。ペリーが来年の再来日を告げて帰ると、同年九月幕府は1638(寛永十五)年以来の「軍船以外の大船建造の禁」を解き、約200年間の鎖国令で遅れていた造船と航海技術を学び始めた。そして、蘭書の翻訳、外国船の見学、と日本人特有の努力で洋式帆船の建造に着手した。
・幕府は鳳凰丸、 
・薩摩の島津斉彬は昇平丸
・水戸の徳川斉昭は旭日丸、
・仙台藩は開成丸、
と、莫大な資財と知能、技術を投入し幾多の困難を乗り越えて完成させました。そして昇平丸は江戸に向け出帆し、無事到着後、幕府に献上されて昌平丸と改名されました。

昌平丸は明治2(1870)年新政府の輸送船として使われている時、北海道桧山郡上(カミ)ノ国町沖で座礁、その短い生涯を閉じたのでした。








明治丸
1874〜1896
日本郵便 NIPPON

明治丸

”海の記念日”
昭和41年 1966/7/20  発行

明治丸(最初は灯台巡視船・商船学校の係留練習船・現在復元後、文化財船)
明治丸は明治6年(1873)イギリスのグラスゴー(Glasgow)・ネピア(Napier)造船所に燈台視察船として発注されました。明治7年(1874)竣工して、翌8年(1875)2月に横浜港に回航されました。回航時の乗組員は船長ロバート・ピーターズ(Robert H.Peters)、機関長ジョン・キャンベル(Jhon Cambell)以下全員が外国人で合計53人でした。横浜着港後船長以下の職員はそのまま残りましたが、水夫、火夫等の部員はすべて日本人に交代しました。 その後、船長以下乗組員全員が日本人となったのは、明治26年(1893)からです。灯台巡視船として活躍し,この間、数次にわたり明治天皇が乗船されました。

明治丸の大きさ(推定)
・重 さ 約1000屯
・帆 柱 3本マスト
・船構造 鉄造、帆走・動力

明治7年(1874)に製造された、鉄製の3本マスト・パーク型帆船。当初は1000tあまりの船で、帆船として(当初は2本マスト・スクーナー型補助帆船汽船)、また2つのスクリューで汽船としても航行できるお役立ち船で、灯台建造船として、またロイヤルヨットとしても活用されました。明治30年に3本マスト・シップ型に改装。昭和40年に帆装をバーク型に変更されました。当時我が国が保有していた鉄船のうち最大規模の帆船でした。現在では100年以上保存された鉄船としては世界的にも希な帆船です。

明治9年の東北・北海道ご巡幸の帰途、青森から函館経由横浜まで乗船されて,7月20日に帰着されました。これが「海の日」のモトとなりました。

明治29年(1896)商船学校(東京商船大学の前身)に譲渡され,係留練習船となりました。敗戦後は昭和26年まで米軍に接収されていました。

昭和53年5月,我が国に現存する唯一の鉄製帆船であり、造船技術史上の貴重な帆船として、国の重要文化財に指定され文化庁および東京商船大学の手により、修復が行われ昭和63年1月に完了し保存されました。








大成丸
1906〜1945
日本郵便 NIPPON
第61回列国議会同盟会議記念

世界地図に国会議事堂
昭和49年 1974/10/1  発行
大成丸

”第四次船シリーズ”
昭和51年 1976/4/12  発行

大成丸(東京商船学校・練習線)
明治39年(1906)〜昭和20年10月9日(1945)
大成丸は明治39年に東京商船学校航海科47、48、49期生を中心とする実習生を乗せて第1次遠洋航海に出港した大成丸は,53日かけてオーストラリアに到着し明治40年の元旦をシドニー港で迎えました.この時以来約40年にわたって5164名の若人が大成丸に青春を輝かせ,海の男に成長し、数多くの海員を育んだ練習船でした.

戦時中の大成丸は純白の船体を灰色に塗り替え、全ての帆を撤去して航行していたそうです。もはや殆どの商船が沈められてしまい,学生たちは卒業後に乗るであろうジャンクの訓練をさせられたそうです.

程なく終戦を迎え,大成丸は引揚帰還第1船としての輸送命令を受けて神戸に回航し、昭和20年10月9日,雨に煙る神戸港第五突堤付近で未処理の機雷が爆発,生徒,教員その他46名という死者・行方不明者を出して大成丸は沈みました。
参考〜日本丸(独立行政法人:航海訓練所の所属帆船)
日本丸は1930年(昭和5年)に初代日本丸が建造され現在は横浜港に保存されています。1984年(昭和59年)9月に2代目となる現在の日本丸が就航しました。「太平洋の白鳥」と呼ばれています。

日本丸2世の大きさ
・長 さ 110.09m
・全 幅 13.8m
・総トン数 2570屯
・帆 柱 4本マスト
・総帆展帆 フルセイル36枚帆
・船構造 鉄造、帆走も可能
・航海速力 13.2ノット
最大積載人員 190人

・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。       
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