大航海物語 |
ガスタルディ 1564、古地図 |
参考資料 |
現在の地図による”セント・ヘレナ島”の位置 |
||
プリマス テネリフ 赤道 アセンション島 セント・ヘレナ島 トリスタン・ ダ・ク−ニャ島 |
アセンションの切手 セント・ヘレナの切手 トリスタン・ ダ・ク−ニャの切手 |
|
|
ガスタルディ Gastaldi ヴェネティア史によると、「1549/5/6、イヤコポ・ガスタルディ、地理上の発見に即応したアフリカ新地図を、パラッツォ・ドゥカーレに描く」となっております。 上の切手図案は、1564年にベネチアの地図製作者ガスタルディが描いた古地図の内の、アフリカ南西岸と南大西洋の部分が図示されて描かれています。切手部分の所(ミシン目の中)にちょうどセントヘレナ島が描かれています。上端に赤道,セントヘレナ島の南の切手の目打部分付近に南回帰線が,ともにほぼ正確な位置に示されていますが、この時代の地図の特徴で、よくある描写で(この小型シートの図案のように)海洋部分に、船に加えて空想的な海獣の絵が描かれ,地図上の空白部を埋めています。 参考:〜セントヘレナ島はアフリカの西岸約1900kmに位置していますが,大航海時代の先陣をきってアフリカ沿岸を航海したポルトガル人によって1502年に発見されました。スエズ運河建設まで、インド洋へ通じる戦略的要地として重要であり、主に給水地として使用されました。絶海の孤島であるため流刑地として使用され、ナポレオン1世の流刑地として著名です。ナポレオンは1815年10月にセントヘレナに到着し、1821年5月に死亡するまで島中央のロングウッドで暮らしました。1833年に発布された法律により王領直轄地となるまで、1834年4月22日までセントヘレナは東インド会社の所有地でした。1870年代半ばまで、大西洋とインド洋を結ぶ航海の要地として繁栄しましたが、スエズ運河開通(1869年)以降は交通量が激減しましたが、なお多くの船がセントヘレナに寄港を余儀なくされました。第2次ボーア戦争の間(1899年-1902年)には、数千人のボーア側捕虜の収容所となりました。またボーア戦争後にもボーア側首脳の流刑地として使用されました。このことは現在、島の観光経済に大きく寄与しています。 ・上記はこちらの文献などを参照させてもらいました。 2007/3/20 |